神義論
悪の問題に関して神の正義と善性を擁護する議論
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神義論(しんぎろん、英: Theodicy)は、全能で全善なる神が存在するにもかかわらず、なぜ世界に悪が存在するかという問い(悪の問題)に対して[1]、神の正義と善性を弁護しようとする議論である[2][3]。弁神論(べんしんろん)とも訳される。

神義論(仏: Théodicée)という言葉は、古希: θεός、theos(神)と、古希: δίκη、dikē(正義)に由来する。この言葉は、大陸合理主義哲学者かつ数学者であるゴットフリート・ライプニッツ(1646年–1716年)による造語である。ただし、ライプニッツ以前から古来より悪の問題に関する思索は続けられてきた。
他概念との相違
- 自然神学(Natural Theology)とは、啓示によらず、自然理性によって神学的問題を議論しようとする試みである[4]。
- 理神論(Deism)とは、神は世界を創造したが、その後の運営は法則に任せている(機械仕掛けの神)とする特定の立場である[5][6]。
- 神義論(Theodicy)とは、「善なる神がなぜ悪の存在を許すのか」という疑問(悪の問題)に対して、神の正義と善性を擁護する立場である[2]。
このように、自然神学が(超自然的な啓示に依拠しないという)探究の方法によって定義されるのに対して、神義論は(悪の問題という[1])特定の問題に対する、(神の正義と善性を擁護するという[3])特定の回答の方向性によって定義づけられている。
神義論は「悪の問題」に対する回答の一つではあるが、その全てではない。神義論は「悪の問題」に対して、神の正義と善性を擁護する回答を行う。しかし、それらを擁護せずに、悪の悲惨さへの神への抗議と慈悲を強調する立場からの回答(例えばユダヤ教反神義論、キリスト教代替神義論)もあれば、神の正義と善性を制限する(例えば過程神義論)または否定する(悪神論)立場、人間の理解では答えることができないとする不可知論、そして、そもそも神は存在しないとする無神論もある。
哲学・神学における神義論
ライプニッツ
哲学者・数学者のゴットフリート・ライプニッツ(1646–1716)は有神論的立場から、1710年に、著書『神の善性、人間の自由、悪の起源に関する神義の試論』(通称『神義論』または『弁神論』、仏: Essai de théodicée sur la bonté de Dieu, la liberté de l'homme et l'origine du mal)において、「悪の問題」に関する議論を発表した。この中でライプニッツは、現実の世界は「あらゆる可能世界の中で最善の世界(英: best of all possible worlds)」であるという考えを生み出し、最善世界説を提唱した。
ライプニッツの説に対しては、ヴォルテールが著書『カンディード』(1759)において批判を行った。ヴォルテールは、1755年のリスボン大地震の災害を背景に、最善世界説を楽観論として風刺した。
宗教社会学による神義論分析
マックス・ウェーバー
社会学者・経済学者のマックス・ウェーバー(1864–1920)は、宗教社会学の観点から神義論を考察した。ウェーバーは、神義論を、キリスト教に限定されるものではなく、宗教一般に共通して、世界の「不完全性」に関する宗教的な説明を与える体系として捉えた。例えば、「幸福の神義論」は恵まれた人々の状態を正当化し、「苦難の神義論」は不幸に苦しむ人々にその宗教的意味を説明する[7]。
様々な宗教における神義論
キリスト教初期教父の神義論
アウグスティヌス(354年–430年)によれば、悪は善の欠如としてあるのみで、神は悪を創造していないとした[8]。アウグスティヌスによれば、神は悪や苦しみのない完全な世界を創造したが、アダムとイヴの不従順によって悪が世界に入り込み(原罪)、それ以来正当な罰として人は悪と苦しみを受けている[9]。アウグスティヌスによれば、神には非難されるべき点がなく、善である[10]。
エイレナイオス(130年頃–202年)は、悪の存在は霊魂の発展に必要であると考えた。エイレナイオスによれば、人間の善性は悪や苦しみを通して育まれる[11]。
補償による議論
悪がより大きな善によって償われるとする議論。すなわち、すべての苦しみが、現世又は来世(或いは死後の世界)において、最終的には報われるとする議論である[12]。しかしこの議論の反対者は、この議論が現世の諸個人の内在的価値を損なう危険性があると指摘している[13]。
自由意志による議論
自由意志の成立条件が悪の存在を十分に説明できるとする議論。大局的には自由意志が善であるとする。神が苦の存在を許すのは、将来的な利益が見込めるからではなく、「強制によらずかつ限られた条件の下で、愛の本質的な真価が輝くことを可能にするため」である[14][15]。しかしこの議論の反対者は、決定論的立場から、自由意志の存在やその効果に一定の疑いをかけるもしれない。或いは、「全能の神なら、自由を損なわず悪を回避する創造ができたのではないか」と議論するかもしれない。
その他の神義論
その他の宗教における神義論
神道における神義論の扱い
仏教における神義論の扱い
ユダヤ教の神義論
義人ヨブの苦難を描いたヨブ記は、しばしばヘブライ語聖書(または旧約聖書)における神義論に関する問題を扱った書物として知られている[16]。
(ヨブは答えた)…「だからわたしは言う、同じことなのだ、と 神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。ちがうというなら、誰がそうしたのか。」—ヨブ記9章22–24節(新共同訳)
(主は言われた)…「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。」—ヨブ記38章4節(新共同訳)
イスラームの神義論
その他
多神教における神義論
神義論批判・神義論以外の選択肢
反神義論
反神義論は、聖書の文脈と第二次世界大戦におけるユダヤ人迫害の文脈の両方における、ユダヤ人による、悪の問題についての、神に対する「反抗の神学」(ホロコースト神学)である[18]。反神義論は神義論に反対し、悪の問題について神が正当化されることを拒否するが[19]、それは個人の神への期待から生じなければならない。彼らの一部は、ヨブ、エレミヤ、アブラハム(創世記18章)、モーセ(出エジプト記33章)などに見られる「預言者の抗議」の態度に範を見出した[20]。
アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」—創世記18章23–26節(新共同訳)
フランスのユダヤ系哲学者エマニュエル・レヴィナスは神義論を批判した[21]。レヴィナスによれば、人間は悪に直面して神の正義を論証するよう求められているのではなく、正しい生を送ろうと努めるよう求められている。すなわち、ホロコーストの最中に神が存在していたかどうかを考えるのではなく、善が勝利する世界を築くことが人間の責務である[22]。
同じくユダヤ系政治哲学家ハンナ・アーレントは、著書『全体主義の起源』『エルサレムのアイヒマン』等において、親衛隊隊員アドルフ・アイヒマンの負の業績を、共感的想像力の欠如と、第三帝国における出世主義的な規範への無思慮な順応とに起因するものとしている。彼女はこれを「悪の凡庸さ」と表現した。
代替神義論
キリスト教徒の中にも神義論に反対する立場がある。彼らによれば、神義論は世界の悪を増長させるかもしれないが、それらを取り除いたりすることはできない[23][24]。彼らは、机上の神義論による悪と苦の抽象的な正当化に反対し、それらが実践的信仰の観点からの正義への渇望、悪と苦に対する怒りと憐れみ、熟考といったものに代替されるべきであると主張している[25][26]。
また、ある学者[27]は、偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース(否定神学)注解の文脈で、悪を十分に説明したり、意味づけたりしようとする限り、悪を悪として真剣に受け止めていないことになるかもしれないと指摘している[27]。
過程神義論
英国の数理哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドのプロセス哲学の影響を受けたプロセス神義論(過程神義論)では、神の全能が否定される。この理論において、神は強制力を持っていないが、自発性(自由)を持つ宇宙の他の構成要素に対して説得を行いつつ、共に苦しむとされる。
悪神論
神が悪や人間の苦を意図している、あるいは、少なくとも人間の苦痛に対して無関心である、又は放置しているとする立場である。グノーシス主義におけるデミウルゴスの概念も悪神論(英: misotheism)の系統に属する。