悪の問題
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悪の問題(あくのもんだい、英: Problem of Evil)または苦の問題とは、全知かつ全能で全善の神の存在と、悪の存在を両立させることは可能であるかという問題である[1]。哲学、神学、宗教および宗教哲学の領域で議論される。
悪の問題は、神学的な文脈において、有神論に対する反論として、無神論の根拠として提起されることが多く[1]、「(全知かつ全能で全善の)神が存在するならば、悪は存在しないはずだ。しかし実際この世に悪は存在する。したがって神は存在しない(もしくは存在しても、全知・全能・全善の属性のうち少なくともどれか一つを欠いている)」という形をとる[1]。
この「悪の問題」を宗教的有神論の重要課題として認めつつも、なおこれに対して「しかしそれでも(全知かつ全能で全善の)神は存在するのだ」と応答しようとする試みが、神義論(英: Theodecy、弁神論とも呼ばれる)である。
エピクロスのパラドクス

英国の経験論哲学者デイヴィッド・ヒュームは、古代ギリシャの哲学者エピクロスが提起したとされるエピクロスのパラドクスを次のように要約している。
三段論法
悪から導かれるとされる議論を三段論法の形式に整理すると次のようになる。この推論は後件否定(modus tollens)の形をとっている[1]。
【前提1】全知かつ全能で全善なる神が存在するならば、悪は存在しない。
【結論】したがって、全知かつ全能で全善なる神は存在しない。
【前提2】この世には悪が存在する。
より厳密な定式化
【命題1】神は存在する。
【命題6】命題1から命題5は同時に両立不可能である(矛盾)。
【命題2】神は、全知かつ全能で全善なる存在である。
【命題3−1】全知の存在は、悪が存在することと悪を防ぐ方法を知っている。
【命題3−2】全能の存在は、悪が存在することを防ぐことができる。
【命題3−3】全善の存在は、悪が存在することを防ごうとするはずである。
【命題3A】悪の存在を知り、悪を防ぐ方法を知り、悪を防ぐことができ、悪を防ごうとする存在は、実際に悪を防ぐはずである。
【命題3】全知かつ全能で全善なる存在は、悪を防ぐはずである。
【命題4】神が存在するならば、悪は存在しない(命題2、命題3)。
【命題5】悪が存在する。
神義論の立場に立つアウグスティヌスやゴットフリート・ライプニッツらは、神は正当な理由があれば悪の存在を許容すると考えている。また、自由意志の存在を許容するために、神があらゆる悪の存在を完全に防ごうとするわけではない(命題3−3の部分否定)とすることで、矛盾を解消しようとする議論もある(現代では例えばアルヴィン・プランティンガがこの立場を取っている)。
動物の苦しみ
悪の問題は、人間の苦を超えて、動物界・自然界の残酷さなどの「苦」にも適用されてきた[4]。広義の「苦」には、進化の過程を通じて捕食者や自然災害、病気などから動物たちが直面してきた暴力や恐怖も含まれている[5]。この問題は進化論生物学者チャールズ・ダーウィンに因んで「ダーウィンの悪の問題」とも呼ばれている[6]。ダーウィンは自伝で次のように述べている。「ほぼ無限の時間にわたって何百万もの下等生物が苦しむことに何の利点があるのだろうか[7]」。人間によって引き起こされる動物への虐待や屠殺は、「おそらく最も困難な悪の問題である」とする学者[6]もいる。
悪の問題に対する応答
悪は善の欠如である
悪は善とは異なり、実体を持たない(悪は善の欠如(羅: privatio boni)である)ため、悪を実体として考えるのは誤解を生ずるという哲学的・神学的立場である。この見解のもとでは、すべて存在は存在する限りにおいて善であり[8]、反対に、悪は本質においては真には存在していない又は無である[9]。アウグスティヌスやその影響を受けた神学者・哲学者らがこの立場を取る。しかしこの立場は、激しい苦痛や虐待的な加害性などの悪の明白な性質に対して、正面から向き合っていないと批判されることがある[10]。
逍遙学派による包摂
逍遙学派の哲学者で植物学者のテオフラストスは[11]、存在の本質は生と死、秩序と混沌、善と悪といった対立概念から生成すると考えた。その中で、悪は「全体として善である全体」の一部に過ぎないため、悪の果たす役割は限定されていると考えた[12]。宇宙(コスモス)は、人間を含めた動植物及び無生物を構成員とする「自然主義的な社会」である。調和のとれた全体の中に、不合理な細部(生存に不必要な構造など)を含みつつも、すべての存在が宇宙秩序(コスモス)において、親族として「自然な秩序と義務」のもとに結びついている。そのため、不自然な生贄を否定し、自然にかなった生き方をしなければならない。全体としての善性には、必然的に部分としての善と悪とがどちらも含まれている。したがってこの立場からは、「不要な悪」という問題は包摂されていることになる[13]。
自由意志による議論
自由意志による議論は次のように進められる。神が強制によって悪を防ぐことは、人間の意志が自由でなくなることを意味する[14]。しかし、自由意志が存在する世界は、それが存在しない世界よりも価値がある。なぜなら、自由によって可能になる善(信頼、愛、寛容、忠誠、親切、赦し)は、自らそれを選択する自由がなければ、現在知られているような価値を持たなかっただろうからである[15]。しかし自由意志によって可能な善という説明は、(無垢な弱者に対する)凄惨な悪という事実を十分に相殺しきれないのではないか[16]、なぜ神は過度に凄惨な悪に対して無反応で受動的なままに見えるのか[17]、また、この自由意志による議論は、意志を持つ人間による悪の存在は説明できても、自然界の苦・悪の存在は説明できないのではないか[18][19]、といった懸念も表明されている。
「より大きな善」の議論(宗教的応答)
この議論は、「より大きな善のためにより小さな悪は存在する」、「悪が存在が許されるのは、悲惨と苦痛の中からも善の業を成し遂げることができるという、神の偉大さを証明するためである」という議論である。この議論がキリスト教徒によってなされる場合は、キリストの奇跡や十字架の受難と関連づけられたり[20][21]、天国において現世の苦しみが正当化あるいは補償されると説かれたりする場合が多い[22]。「苦しむ神だけが助けることができる[23]」。
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。…<中略>…彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た[24]。」
しかしこの「より大きな善」という議論に対して、「あらゆる悪に対してより大きな善が期待できるなら何でも許されるのか」「現世の道徳を無効にするという代償を伴うのではないか」という懸念が提示されている[25][26]。
進化論的神義論(宗教的応答)
善と害は不可分である。第一に、悪は善の結果である。自由意志は善であるが、これは害も引き起こす。第二に、善は害を伴う過程を通じてのみ発展・進化できる。第三に、善の存在は、本質的かつ構築において、害や苦の経験と不可分である[16][27]。このシナリオでは、自然災害は生命の発展に必然であり、自然選択のみが適応を生み出す[27]。物理的な悪は存在し、ダーウィニズムは神が自然淘汰を許すことが必然であったことを説明している[27]。自然はイエスに代表される十字架の苦しみを体現している[28]。「被造物全体が今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っている」(ローマ人への手紙8:22)[27]。しかし神の全善の原理より、いかなる生物の苦しみや絶滅も正当化されない[27]。潜在能力を十分に発揮することなく滅んだ全ての生物は別の場所で成就されなければならない[16]。これの唯一の解は、新しい天地における新しい被造物への変容という終末論的希望である[27]。 しかしこの議論は、後半が明らかに反証可能性を逸脱しており、苦痛から救済への接合部が人間側の願望による論理の飛躍に依存していると批判される。
エイレナイオスの神義論はアウグスティヌスの神義論と大きく異なっており、悪は人間の霊的成長(霊魂形成)のための試練として与えられる[29][30]。生の実存的危機は多くの場合、肯定的変化への触媒となる[31]。しかしこの議論には、悪は魂の成長を促すどころかむしろ魂を損なうという反論がある[32]。