張万進 (涇州節度使)
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白皙の肌で髯が美しく、若くして無頼だった。河東節度使の李克用に仕え、騎射で名を知られ、攻城や野戦で命を顧みず奮闘した。後梁の軍と対陣したとき、手に短刀を持って馬を躍らせて単身で進み、兵刃がすり減ると、万進は大錘に持ち替えて、左右自在に攻撃した。後唐の荘宗や明宗にその武勇と戦功を讃えられ[1]、沂州刺史に累進した。天成4年(929年)、安北都護となり、振武軍節度使をつとめた[2]。長興3年(932年)、威勝軍節度使に転じた[3]。清泰2年(935年)、鄜州節度使となった[4]。
後晋の天福2年(937年)3月、万進は検校太傅を加えられた[5]。9月、右龍武軍統軍となった[6]。天福3年(938年)、涇州節度使に任じられた。万進は凶暴で、公庭に大鼎をならべて、肥えた羊を煮させ、肉塊を幕僚たちに無理やり食わせた。その妻や幕使の張光載を統治に関与させ、銭数万を納めさせた。張光載は罪に問われて登州に配流された。天福4年(939年)3月4日、万進は死去した。その妻が涇州節度副使の万庭圭を恨んで、万庭圭が万進を脅かして死なせたとその子に語った。万庭圭がそのことを聞くと、弔問に赴かなかった。涇州の民も誰一人として供物を贈るものがなかった[7]。