張仁願 (五代)
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後梁の貞明2年(916年)、功臣の子として衛尉寺主簿を初任とした。著作佐郎・左賛善大夫に転じ、緋魚袋を賜った[1]。
後唐の同光元年(923年)、仁願は大理寺正に任じられた。同光3年(925年)、将作監少匠に転じた。天成元年(926年)、大理寺少卿に転じた。長興年間、昭武軍節度判官・帰徳軍節度判官を歴任した。長興4年(933年)、入朝して再び大理寺少卿となった。清泰2年(935年)、殿中監に任じられた[2]。
後晋の天福5年(940年)、仁願は大理寺卿となった。天福8年(943年)、光禄寺卿に転じた。開運元年(944年)、再び大理寺卿となった。ときに隰州刺史の王澈が不正な手段で財産を蓄えると、朝廷はかれが功臣の末裔であることを理由に許そうとしたが、仁願は重ねて上奏して法により処刑させた。開運2年(945年)、病没した。享年は51。秘書監の位を追贈された[3]。