張允伸
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盧龍軍に仕えて押牙に累進し、馬歩軍都知兵馬使を兼ねた。大中4年(850年)、盧龍軍節度使の周綝が病に臥せると、允伸は留後となり、右散騎常侍を加えられた。この年の冬、検校工部尚書に転じた。ほどなく盧龍軍節度使となった。咸通9年(868年)、光禄大夫の位を加えられ、検校司徒・兼太傅・同中書門下平章事となり、燕国公に封じられた[1][2]。
咸通10年(869年)、龐勛が徐州で反乱を起こすと、允伸は米50万斛・塩2万斛を朝廷に献上した。この年の冬、特進を加えられ、侍中を兼ねた。咸通12年(871年)、病のため医薬を求め、子の張簡会を幽州盧龍軍節度副大使とした。咸通13年(872年)1月25日、死去した。享年は88。太尉の位を追贈された。諡は忠烈といった[3][2]。