張全義
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生涯
家は貧しく、小作農であった。黄巣の乱が勃発すると、参加し頭角を現した。黄巣が失敗すると、唐軍に降って洛陽県令の地位を与えられ、全義の名を賜った。民生の安定に尽力し洛陽の復興を進め、私財を投じて帰農を奨励し、都城を再整備した。
農民の出身のため、河陽節度使の李罕之に軽侮された。文徳元年(888年)、李罕之を逐って自ら河陽節度使となった。李罕之は河東節度使の李克用の助力を得て、張全義を包囲した。劣勢に陥ると張全義は宣武軍節度使の朱全忠に救援を乞い、危険を脱した。その後、農業経営力をもって朱全忠を輔けた。
朱全忠が後梁を建て皇帝に即位すると、魏王に封じられた。朱全忠の諱を避けるために、名を宗奭と改めた。朱全忠は乱淫に走り、乾化2年(912年)に張宗奭の家へ行くと、張宗奭の妻や娘、息子の嫁などすべての女性が慰み者になった。張宗奭の子の張昌祚が堪えきれず朱全忠の殺害を謀ったが、張宗奭は「救われた恩義がある」と制止した。
後梁が滅すると張宗奭は後唐に降り、名を全義ともどった。後唐の荘宗と劉皇后に多額な賄賂を贈ったので、中書令・河南尹となり、斉王に封じられた。また、劉皇后の仮父となった。李嗣源(後の明宗)など後唐の将領らからは嫌悪を買った。明宗の即位後、張全義は憂懼に絶食し死去した。