張継祚
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斉王張全義の子として生まれた。はじめ後梁の河陽牙内指揮使となった。後唐の荘宗の祖父の李国昌の諱を避けるために、名を継祚と改めた。同光4年(926年)、父が死去すると、継祚は右金吾衛将軍に任じられた。まもなく蔡州刺史に転じた。検校太保に累進した。明宗が郊祀をおこなうと、継祚は供頓使をつとめた[2]。応順元年(934年)、右武衛上将軍に任じられた[3]。清泰元年(同年)、右衛上将軍に転じた[4]。清泰3年(936年)、母が死去したため、継祚は辞職して喪に服した。後晋の天福2年(937年)、喪が明けないうちに、張従賓の乱が起こり、兵を発して脅迫されたため、継祚は孟州に赴き、知西都留守事をつとめた。張従賓が敗れると、継祚はふたりの子とともに市で処刑された[2]。