劉鄩
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経歴
若い時から兵略を好んでおり、平盧節度使の王師範の部将として淄州刺史・淄州行軍司馬となる。盧宏が王師範に反した際には、伏兵を用いてこれを破る。そして兗州を攻め取り、宣武軍節度使の朱全忠の将の葛従周に攻囲されるもこれに屈せず、主である王師範が投降したことによって開城する。その後、朱全忠のもとで元従都押牙となった。劉知俊が反乱を起こした際には、潼関を陥落させ長安を取り戻す功績を挙げる。
後梁が建国されると、左龍武軍統軍となった。開平3年(909年)、永平軍節度使に任じられた。乾化4年(914年)、開封尹となった。
乾化5年(915年)、魏州で李存勗と漳河をはさんで対峙し、その最中に密かに兵を動かして太原府を急襲することを図ったが、進軍を長雨に阻まれたことで退く。翌年、貝州を守っていたところ、末帝が決戦するよう命じ、諸将もそれに賛同した。当時劉鄩は、主戦を唱える末帝と対立していた。しかし、この命を拒むことは出来なかったため「主上は暗愚、臣は阿諛、将は驕慢、卒は怠惰」と嘆くも、やむなく魏州を攻撃したが、李存勗に敗れた。このため黄河を渡って滑州に退いた。
貞明6年(920年)、河中節度使の朱友謙が晋王李存勗に降ったため、これを討伐しようとするが、晋より援軍に来た李嗣昭に敗れた。朱友謙と姻戚関係にあったこともあり、名声や軍功を忌む段凝らによって讒訴された。龍徳元年(921年)5月、劉鄩は河南尹の張宗奭に洛陽で毒殺された。享年は64。