張均 (元)
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張均の父の張山はモンゴルの第一次南宋侵攻に従軍し百戸・総把の地位を得たが、戦死してしまった人物であった[1]。
張山の死後、百戸の地位を継承した張均はタガチャルの鄂州攻めに加わり、この時顔に流れ矢を受けている。1262年(中統3年)には李璮の乱鎮圧戦に功績があり、千戸に昇格となって淄州に駐屯した。1269年(至元6年)、左丞董文炳の配下に入って南宋攻めに加わり、五河口から濠州の北に転戦し、伏兵を破る功績を挙げた。1273年(至元10年)には漣水を攻め、孫村堡を奪っている。1275年(至元12年)、金符を下賜されて忠翊校尉・沂郯翼千戸の地位を授けられ、蕪湖の戦いでは南宋水軍の戦船を奪って40人余りの捕虜を得る功績を挙げた。また丞相アタカイの配下に入って戦功があり、武略将軍とされた[2]。
1277年(至元14年)、虎符を下賜されて宣武将軍の地位を授けられ、1285年(至元22年)には松江万戸に昇格となった。1287年(至元24年)からは鎮南王トガンによるベトナム遠征に従軍し、1289年(至元26年)には北方に派遣されて明威将軍・前衛親軍副都指揮使の地位を授けられた[3]。
1294年(至元31年)に新たにオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位すると、カラコルム地方での屯田を命じられた。ヨブクルらがシベリア方面に派遣されたときは(イビル・シビルの戦い)、兵站を担当して決して食料を途絶えさせることはなかったという。1297年(大徳元年)には、和林等処副元帥の地位に改められ、その後都元帥に昇格となって鎮国上将軍の号を得た。1314年(延祐元年)に死去し、息子の張世忠が跡を継いで前衛親軍副都指揮使の地位を承襲した[4]。
脚注
- ↑ 『元史』巻166列伝53張均伝,「張均、済南人也。父山、従軍伐宋、以功為百戸、俄陞総把、戦死」
- ↑ 『元史』巻166列伝53張均伝,「均襲百戸、従親王塔察児攻鄂州、面中流矢。中統三年、従征李璮有功、以総帥命陞千戸、領兵守淄州。至元六年、従左丞董文炳攻宋五河口、転戦濠州北、遇其伏兵、均率衆力戦、敗之。十年、攻漣水、奪孫村堡。十二年、賜金符、授忠翊校尉・沂郯翼千戸。従攻蕪湖、奪宋戦船、俘四十餘人。又従丞相阿塔海戦有功、加武略将軍」
- ↑ 『元史』巻166列伝53張均伝,「十四年、賜虎符、加宣武将軍。二十二年、陞松江万戸。二十四年、従鎮南王征交趾。二十六年、従北征、擢明威将軍・前衛親軍副都指揮使。三十年、世祖親征乃顔、以扈従受賞」
- ↑ 『元史』巻166列伝53張均伝,「成宗即位、命屯田和林、規画備悉有法、諸王薬木忽児北征、給餉頼之、未嘗乏絶、帝嘉其能、賜予有加。大徳元年、改和林等処副元帥、歴宣慰司同知、陞都元帥、加鎮国上将軍。延祐元年、卒。子世忠、襲前衛親軍副都指揮使」