イビル・シビルの戦い
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13世紀後半、オゴデイ家出身のカイドゥはモンゴル帝国第5代皇帝クビライに不満を懐く諸勢力を糾合し、中央アジアに独立した王権(カイドゥ・ウルス)を打ち立てた。カイドゥはクビライ政権そのものを打倒しようとはしなかったものの、自らの中央アジアにおける支配権を確立すべく、主にウイグリスタン等において大元ウルス軍と熾烈な戦闘を繰り広げた。1287年に大元ウルス内でナヤンの乱が勃発すると、これを好機と見たカイドゥは1288年・1290年にモンゴル高原に出兵するも、これも大元ウルス側の防戦によって撃退され、両勢力の抗争は膠着した[1]。
一方、キプチャク草原を支配するジョチ・ウルスは一連の争乱においてどちらか一方に過度に肩入れすることなく、つかず離れずの中立的な態度を維持していた[2]。しかし、1280年にトダ・モンケが新たな当主として推戴されると、左翼(オルダ・ウルス)のコニチと右翼のノガイの協議によって大元ウルスと友好関係を築くことが決定され、その証として軟禁状態にあったノムガンを大元ウルスに返還することになった[3]。このようなジョチ・ウルスの態度の変化はカイドゥ・ウルスの勢力拡大に伴ってジョチ家の中央アジアにおける権益が脅かされるようになったことが関係していると考えられている[4]。
カイドゥ軍の攻勢によってウイグリスタンを失陥していた大元ウルスは、僅かにモンゴル高原西北部からイェニセイ川上流域を通じて西シベリア(イビル・シビル地方)に出るルートでのみジョチ・ウルスと接していた。ジョチ・ウルスとの関係が好転した大元ウルス軍はこの方面に軍を展開することが可能となり、これを脅威と見たカイドゥ側もこの方面に出兵したことにより、イビル・シビルの戦いは引き起こされたと推測されている[5]。
1290年代後半にオルダ・ウルス(ジョチ・ウルスの左翼部)当主となったバヤンとカイドゥの関係について、『集史』は以下のように記している。
ジョチ・ハン紀:これ(1303.1-2頃のバヤンによる対ガザン遺使)より以前、(オルダ・ウルス領と大元ウルス領とは)互いに隣接していた。この数年間にて、カイドゥは、彼ら(バヤンと、ジュチ家宗主トクタの軍)がカアン(=成宗テムル)軍に合するかも知れないという恐れによって、ヤンギチャルという名の自分の二男、および、シャーという名のもうひとりの子を、そして、モンケ・カアンの子のシリギの子のトレ・テムル 、および、アリク・ブケの子のメリク・テムルを、軍と共にバヤンの諸州の国境に派遣し、その境域を彼らに委ねた。即ち、(彼らが)カアン軍とバヤン軍との間に障害物となり、(両軍を)一緒にさせないように。
オゴデイ・カアン紀:大軍と共に、オルダの一族出身のコニチの子息のバヤンの方向のスペ(=辺境軍事拠点)は、彼(ヤンギチャル)が支配している。即ち、(彼らは)互いに敵である。バヤンがカアン(=成宗テムル)およびイスラームの君主(=ガザン)と友人であるということのため。そして、彼(バヤン)の従兄弟クペレクは、カイドゥの諸子およびドゥアの方に傾いている。彼らは、彼(クペレク)を引き立てている。即ち、バヤンがカアンの諸軍にイスラームの君主と共に合し、彼らの事業の損失の原因とならないように。 — ラシードゥッディーン、『集史』[6]
すなわち、カイドゥ側はカアン軍(大元ウルス軍)とバヤン軍(ジョチ・ウルス軍)の連合を恐れており、その対抗策として(1)配下の諸王の派遣、(2)ジョチ家王族のクペレクによる叛乱支援、という2つの政策をオルダ・ウルス(ジョチ・ウルス左翼部)に仕掛けていた。漢文史料の『元史』に「(大元ウルス軍は)カイドゥの将バアリン(八憐)・テレングト(帖里哥歹)・必里察らとイビル・シビルの地(亦必児失必児之地)において戦った」と記される[7]一連の戦闘は、まさにこのカイドゥによる出兵に連動して生じたものであった。
