張彦超

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張 彦超(ちょう げんちょう、生年不詳 - 956年)は、五代十国時代軍人沙陀部の出身[1]

背中が曲がっていたため、当時の人に「跛子」と呼ばれた。はじめ騎射により晋王李存勗に仕えて馬直軍使となった。同光元年(923年)、後唐の荘宗李存勗が開封府に入ると、彦超は右神武軍指揮使に任じられた。李嗣源の義子となった。天成2年(927年)、蔚州刺史に抜擢された[1]

彦超は以前から石敬瑭と合わず、石敬瑭が太原府に駐屯してその指揮下に入ると、蔚州の州城ごと契丹に帰順した。契丹の雲州節度使となった。契丹が南侵すると、彦超は部下を率いて、鎮州広晋府を侵犯した。会同10年(947年)、契丹の太宗が開封府に入ると、彦超は侍衛親軍馬軍都校に転じた。ほどなく晋昌軍節度使に任じられた[1]

天福12年(同年)、後漢の高祖劉知遠洛陽に入ると、彦超は上表して帰順し、鄜州節度使となった。乾祐元年(948年)、開封府に入朝し、奉朝請にとどまった。乾祐3年(950年)、郭威大名府で起兵して開封府に迫ると、彦超は騎兵を率いてこれをはばむよう隠帝劉承祐に命じられた。劉子陂が兵乱を起こすと、彦超は率先して郭威に面会して帰順した[2]

後周広順2年(952年)、彦超は右神武軍統軍に任じられた。顕徳3年(956年)10月29日、邸で病没した。太子太師の位を追贈された[3]

脚注

伝記資料

参考文献

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