張従訓

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張 従訓(ちょう じゅうくん、生没年不詳)は、末から五代十国時代にかけての軍人後晋外戚は徳恭。本貫涼州姑臧県回鶻の別派の出身[1]

儒家の書を読み、騎射を得意とし、はじめ散員大将となった。天祐年間、沙陀族数百人を率いて、壺関に十数年駐屯し、昭義軍節度使の李嗣昭に信任された。晋王李存勗が徳勝口で梁軍と対峙すると、従訓は軍前に召し出され、先鋒游奕使をつとめた。まもなく雲捷軍指揮使・検校司空に転じ、継鸞の名を賜り、諸子の行軍に従った。李嗣源はその地位の低かったとき、従訓の父の李存信の麾下で都押牙となり、従訓と旧交があった[1]

天成元年(926年)、後唐の明宗(李嗣源)が即位すると、従訓は石州刺史に任じられ、もとの姓名にもどされた。憲州刺史・徳州刺史を歴任した。石敬瑭太原府に駐屯すると、従訓はその長女を石敬瑭の養子の石重貴にとつがせた。清泰元年(934年)、唐州刺史に任じられた。清泰3年(936年)、石敬瑭が太原府で起兵すると、従訓は後唐の末帝の命を受け、郷兵を率いて祁県の団柏谷に宿営したが、兵敗れて逃走し、民間に身を隠した[2]

天福元年(同年)、後晋の高祖(石敬瑭)が洛陽に入ると、捜索の手が伸ばされ、1月あまりして従訓は出頭した。高祖の姻戚であることを理由に、憐憫を加えられた。ほどなく絳州刺史・検校太保に任じられた。天福年間、在官のまま死去した。享年は52。少帝(石重貴)の皇后の父であったことから、太尉の位を追贈された[3]

家族

脚注

伝記資料

参考文献

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