張敬達
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経歴
張審の子として生まれた。若くして騎射により名を知られ、後唐の荘宗の知遇を受けて、父の職を継いだ。開封府を平定するにあたって功績があり、検校工部尚書を加えられた。天成元年(926年)、明宗が即位すると、敬達は奉聖軍指揮使・検校尚書左僕射となった。天成4年(929年)、河東馬歩軍都指揮使に転じ、検校司徒となり、欽州刺史を遥領した。長興元年(930年)、彰国軍節度使に転じた。長興3年(932年)、検校太保を加えられた。長興4年(933年)、雲州節度使に転じた。ときに契丹が部衆を率いて黒楡林の捺剌泊から没越泊までやってきて、国境の水草を借りたいと言ってきた。敬達はそのたび兵を集めて契丹の南下を防いだ。清泰2年(935年)、石敬瑭に従って北面行営兵馬副総管となり、代州に駐屯した。11月、建雄軍節度使に転じ、検校太傅を加えられた[1][2]。
清泰3年(936年)、石敬瑭が起兵すると、敬達は末帝の命で北面行営都招討使となり、部下の兵を率いて太原府を包囲しようとした。ほどなく兵3万を率いて、晋安郷に陣営を置いた。末帝が6月から太原府を攻め取るよう求める詔勅を相次いで出したので、敬達は城柵を設けて、雲梯飛炮を用いて攻城戦にあたった。ときに暴風雨のため平地が水没し、城柵が破壊されて、包囲網が完成することはなかった。9月、契丹軍がやってくると、敬達は大敗し、ほどなく逆に石敬瑭と契丹軍に包囲された。末帝の軍の救援がやってこず、敬達の軍の食糧は尽きて、馬まで食い尽くした。副将の楊光遠や次将の安審琦は敬達に早く降伏するよう勧めた。敬達は明宗に受けた恩義と、末帝に大権を委ねられた責任を述べて、これを拒否した。楊光遠と安審琦は敬達が降伏しようとしないのをみて、敬達を斬って石敬瑭に降伏した[3][4]。