張毅 (1876年生)
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事績
| 張 毅 | |
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| プロフィール | |
| 出生: | 1876年 |
| 死去: | 不詳 |
| 出身地: |
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| 職業: | 軍人 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 張毅 |
| 簡体字: | 张毅 |
| 拼音: | Zhāng Yì |
| ラテン字: | Chang I |
| 和名表記: | ちょう き |
| 発音転記: | ジャン イー |
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張 毅(ちょう き、1876年 - 没年不詳)は、清末から中華民国時代の軍人。別名張 義新、字は蓬山[1][注 1]。北京政府時代に四川省で活動した軍人である。
1876年、四川省成都府に生まれたが、本籍は湖北省徳安府安陸県である[1][注 2]。1900年、日本陸軍大尉井戸川辰三が四川総督奎俊(中国語版)に日本への留学生の派遣を勧めたことで、中西学堂の学生であった張らが選抜される[4]。成城学校を経て日本陸軍士官学校に入学し、卒業後帰国した[4]。
1903年、四川総督に就任した錫良の招請により四川陸軍武備学堂の監学となる[1]。1904年、陸軍第17鎮(中国語版)の管帯となる[1]。1907年4月、錫良が雲貴総督へ転じたため陳宧らとともにこれに従い、統帯官・督練処参議・学兵営総弁を兼ねる[5]。のち第37協(中国語版)の協統となる[6]。1909年、督練公所教練処総弁となり、まもなく雲南陸軍講武堂総弁も兼ねる[6]。辛亥革命が雲南に波及した1911年10月30日(農暦9月9日)のいわゆる重九起義(中国語版)では反動側に立ったため一旦逮捕されたが、戦時副司令李根源が総司令蔡鍔を説得したことで釈放され、都督府登庸局長に任じられた[6]。
中華民国成立後の1912年(民国元年)12月、陸軍中将に補せられ、この頃に四川都督府参謀長をつとめた[7]。
1914年(民国3年)1月13日、川辺鎮守使兼川辺財政分庁庁長に任命される。さらに同月22日に四川省辺東観察使も兼任した。1915年(民国4年)4月末、これらの職を辞任した(辺東観察使は廃止)[2][3][7]。
1922年(民国11年)11月から1923年(民国12年)5月まで四川塩運使を務める[3]。
以後、その行方は不詳である。
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