張虔釗
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唐の検校尚書左僕射の張簡の子として生まれた。はじめ太原府の牙校となり、武勇により同輩に知られた。李克用や李存勗のときに、右突騎軍使を歴任した[1]。
天成元年(926年)、後唐の明宗が即位すると、虔釗は随駕親軍都指揮使に抜擢され、春州刺史を遥領した。天成3年(928年)、諸将とともに王都を鎮州に包囲し、契丹を嘉山の下で破った。天成4年(929年)、定州を平定すると、功績により滄州節度使に任じられた[1]。長興元年(930年)、徐州節度使に転じ、検校太保を加えられた[2]。長興2年(931年)、鳳翔節度使となった[3]。長興3年(932年)、山南西道節度使となり、西面行営馬歩軍都部署を兼ねた[1]。
応順元年(934年)、潞王李従珂が鳳翔府で起兵すると、虔釗は閔帝の命を受けて岐山の下に軍を集結させようとした。西征軍が敗れると、虔釗は興元府に帰り、武定軍節度使の孫漢韶とともに後蜀に帰順した。孟知祥に厚遇され、引き続き山南西道節度使に任じられた。孟昶が即位すると、虔釗は検校太師を加えられ、中書令を兼ねた[1]。
後蜀の広政9年(946年)、契丹の太宗が洛陽に入城すると、虔釗はその機に乗じて後蜀の兵数万を率いて北伐し、秦州や雍州に進攻しようとした。広政10年(947年)、後漢の高祖が華北を平定すると、虔釗は功績なく撤退した。広政11年(948年)、興州までいたって、憤激のうちに死去した[4]。