張遵誨
五代十国時代の軍人
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経歴
天祐3年(906年)、父が汴州の軍に殺害されると、遵誨は太原府に逃れ、李克用の下で牙門将となった。晋王李存勗が山東を平定するにあたって、遵誨は典客として従軍し、幽州馬歩軍都虞候・鎮州馬歩軍都虞候を歴任した。後唐の同光元年(923年)、左金吾衛大将軍となった[1]。
天成元年(926年)、明宗が即位すると、遵誨は任圜の推薦を受けて、西都副留守・知西都留守事となった。天成3年(928年)、京兆尹となった。天成4年(929年)、洛陽に入朝して客省使・衛尉寺卿となった。南郊で郊祀がおこなわれると、遵誨は儀仗法物使をつとめた。安重誨と結び、節度使の位を望んだが、絳州刺史にとどまったため、鬱々として楽しまなかった。洛陽を離れる日、隼を描いた赤い旗の下で白衣で馬に乗った。絳州に到着すると、病の徴候もなく、翌日に死去した[1]。