張鈞
後漢の文官
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史書における張鈞
中平元年(184年)、黄巾の乱が拡大していく中で張鈞は霊帝に上申し、黄巾の乱の原因として次のように十常侍を非難し処罰を求めた。
「張角の元に兵が集まり乱が収まらない理由は、中常侍らが近しき者のみを取り立てて州郡の役職を占有し、官職を売り、その富を賄うために民は財を掠め取られ、救済を求める手段がないまま窮しているためです。屈した民は張角に従って盗賊の手段を学ぶしかなく、そのため不法を働く賊にならざるをえません。すぐに中常侍を処刑し、その頭を南郊にかけて謝罪を世に知らしめれば兵はもはや必要なく、この乱は収まります[1]」
しかし霊帝は十常侍を処罰せず、のみならず傍らの中常侍にその書状を見せた。すると中常侍は帽子を取り、裸足で平伏して皇帝に謝罪を示すとともに投獄を願い、さらには黄巾の乱の鎮圧のために私財を寄付し、自らの一族を乱鎮圧のための尖兵にすると申し出た。霊帝はむしろ張鈞を恨み「張鈞は真の狂人だ。中常侍の中に一人として善人ではない者はいないではないか[2]」と激怒した。張鈞はその後も嘆願し続けたが霊帝はそれには応じなかった。その後、霊帝が張角と宮廷の内応者の調査を御史に命じたところ、御史は十常侍に抱き込まれ「張鈞が張角から道術を学んでいる」と虚偽の告発をさせた。張鈞は捕らえられ拷問の末に獄死した。