徐文遠
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南朝斉の司空の徐孝嗣の玄孫にあたる。父は南朝梁の秘書郎を務めた徐澈。母は南朝梁の元帝の娘である安昌公主[1]。
江陵が陥落した際に捕らえられ、偃師県において貧しい生活を送った[注 2]。兄の徐文林は書物を売って生計を立てており、徐文遠はその書物を読み込み、五経や『春秋左氏伝』に通じるようになった[1]。
当時、老儒の沈重が太学で講義を開いており、授業には常に1000人もの学生が集まっていた。徐文遠は彼のもとで質問を重ねたが、数日で通うのをやめてしまった。人からその理由を問われると、「先生の学説は紙上の言葉にすぎず、深い境地についてはまだ見えていない」と答えた。これを聞いた沈重は徐文遠を呼び寄せて議論を重ね、その才能を称賛した。徐文遠の性質は誠実純朴であり、竇威・楊玄感・李密・王世充らは皆、徐文遠に師事した[1]。
隋の開皇年間に昇進を重ね、太学博士となったが、かつて経書を講じた楊諒が反乱を起こすと庶民に落とされた。大業元年(605年)、礼部侍郎の許善心により学官に推薦され、国子監博士に任じられた。当時、『左氏伝』は徐文遠、『礼記』は褚徽、『詩経』は魯世達、『易経』は陸徳明がこの時代の第一人者であった。徐文遠の講義の特徴としては、歴代の儒者たちの解釈をすべて挙げ、その是非を明らかにし、その上で自らの新釈を示して調和させるというもので、その講義は聞く者の疲れを忘れさせるほどだった。のちに越王楊侗から国子監祭酒に任じられた[1]。
洛陽で飢饉が起こり、徐文遠は薪を拾いに城を出たところを李密に捕らえられた。李密は徐文遠を丁重にもてなし、弟子の礼をもって接した。洛陽で王世充が専制するようになると、李密は徐文遠に意見を求めた。徐文遠は「王世充は残忍かつ偏狭短気であり、必ずやすぐに乱を起こすだろう。将軍はこれを破らずして朝廷に仕えることはできまい」と答えた。李密は「先生は儒者であり、軍事については学んでいないとおっしゃっていましたが、いざ大計を立てる段になると、その明晰な戦略は人並み外れておられます」と言った[1]。
李密が敗れると再び洛陽に入った。王世充は徐文遠に特別な待遇を与えたが、徐文遠は王世充に会うたびにまず拝礼した。人からその理由を問われると、「李密は君子であり、酈食其の礼(権威にへりくだらない態度)を受け入れることができたが、王世充は小人であり、旧知の義を受け入れない。時に応じて動くのは当然のことだ」と答えた[1]。
王世充が即位すると国子監博士に任命された。息子の徐士会が長安に逃れると、徐文遠は王世充の怒りを買い、支給を断たれ、幾度も飢え死にしかけた。薪を取りに出た際に羅士信に捕らえられて長安へ送られ、唐で国子監博士となった。高祖李淵が国子監を訪れて釈奠を見学した際、徐文遠は『春秋』の題をもとに講義を行い、臨機応変に応答して誰にも論破されなかった。李淵は彼を異才と認め、東莞県男の爵位を与えた[1]。