清末に両江優級師範を卒業してから日本へ留学し、法政大学を卒業したとされる[1]。
1916年(民国5年)1月15日、中華革命党江西省支部長となる[2]。同年、『晨鐘報』(8月15日創刊)で記者となった[1]。1923年(民国12年)10月10日、中国国民党党務討論会委員となり、翌月には同党中央執行委員臨時候補に選任されている。1925年(民国14年)6月29日、広東省電話総局局長に任命された[2]。蔣介石国民政府では総統府秘書、大本営宣伝委員、粤漢鉄路局長、江西捐税監察委員等を歴任した後に下野し、江西高級職業学校校長となった[1]。
1940年(民国29年)3月30日、徐蘇中は南京国民政府(汪兆銘政権)に参加し、国民政府文官長に特任された[3]。同年12月16日、中国国民党党務委員会主任委員に選任され[2]、翌1941年(民国30年)2月には東亜聯盟中国総会常務監事も兼任している[4]。1943年3月29日、一級同光勲章を授与された[5]。1944年(民国33年)11月18日、監察院副院長に任命され、汪兆銘政権崩壊までつとめたと見られる[2][6]。
汪兆銘政権崩壊後における徐蘇中の動向は不詳である。ただし、徐が漢奸として摘発されたとの情報は無い。