御牧兼顕
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御牧 兼顕(みまき かねあき、⁇~1582)は、明智光秀の配下武将として行動していた武将。御牧三左衛門 三左衛門。 諱は景重または兼顕、信勝。[1][出典無効]
父に御牧信時。兄に御牧信正。弟に御牧景則。
織田政権下での活動になると、 室町幕府の滅亡前後から明智光秀の配下に入ったとされている。1577年(天正5年)に織田信長に反旗を翻した松永久秀の謀反(信貴山城の戦い)が起きた場合には、光秀に従い、片岡城を攻め、城主を討ち取る軍功を挙げた。 1582年、光秀が信長を討った際(本能寺の変)、御牧は京都の重要拠点である勝竜寺城の守備を任された[2][出典無効]。
羽柴秀吉の軍勢と激突した山崎の戦いでは、明智軍の本隊右翼に陣を敷いて前線で最後まで奮戦した。[3][出典無効] 光秀に撤退を促す進言を送り、自らは「我が討死の間に引き給え」と勢いづく羽柴軍の盾となって殿を務め、敵陣に突撃して壮絶な討死を遂げ、彼の決死の防戦により、光秀は一時的に勝竜寺城へ退却することができた。[4][出典無効]