御牧景則 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 安土桃山時代生誕 生年不詳死没 慶長5年(1600年)別名 勘兵衛(通称) 凡例御牧 景則時代 安土桃山時代生誕 生年不詳死没 慶長5年(1600年)別名 勘兵衛(通称)主君 織田信長→明智光秀→豊臣秀吉→秀頼氏族 御牧氏父母 父:御牧益景兄弟 景重、景則子 信景(四手井清庵)テンプレートを表示 御牧 景則(みまき かげのり)は、安土桃山時代の武将。 御牧氏は山城国久世郡御牧村の豪族。御牧益景の次男として誕生し、一族の御牧摂津守が隠居すると、その名跡を継ぐ[1]。 天正元年(1573年)8月2日、細川藤孝・三淵藤英とともに淀城攻撃に参加した(第二次淀古城の戦い)[1]。 天正3年(1575年)から翌天正4年(1576年)にかけて大和国で活動していたが、のちに明智光秀の与力となった[1]。 天正10年(1582年)の山崎の戦いに従軍し、兄・景重は戦死するが、景則は豊臣秀吉に仕えて馬廻となり、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵においては肥前国名護屋城の普請を行った他、寺沢広高とともに同城の裏門の警固を担当した。のちに山城国久世郡市田村に1,000石を与えられ、検地奉行として山城国の検地を行った[2]。 慶長2年(1597年)4月には徳川家康を自邸に招いて饗応を行っている[3]。 慶長5年(1600年)の春に死去。遺領は息子の信景が継ぐが、同年の関ヶ原の戦いで失領した[3]。 人物・逸話 景則は稀に見る清廉潔白の士で、他の検地奉行が職権を笠に着て賄賂を受け取ったのに対し、付け届けはおろか、一瓶の酒、一籠の魚も断固受け付けなかったという[3]。 公家の西洞院時慶と親交があった[3]。 脚注 1 2 3 谷口克広『織田信長家臣団人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年11月1日、470頁。ISBN 9784642014571。 ↑ 阿部猛、西村圭子 編『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年9月10日、751頁。ISBN 4404017529。 1 2 3 4 高柳光寿、松平年一『戦国人名辞典 増訂版』吉川弘文館、1973年7月20日、240-241頁。 Related Articles