徳認識論
From Wikipedia, the free encyclopedia
徳認識論(とくにんしきろん、英: virtue epistemology)とは、知的徳(英: intellectual virtue)を中心概念とする認識論的アプローチの総称である。伝統的な認識論が個々の信念の性質や正当化の条件に焦点を当てるのに対し、徳認識論は認識主体の知的な卓越性や性格特性に注目して知識や正当化を分析する[1][注 1]。 知的徳に関する考察はアリストテレスにまで遡るが、現代の分析哲学において徳認識論の出発点としてしばしば参照されるのは、アーネスト・ソーサ(Ernest Sosa)が1980年に発表した論文「筏とピラミッド」である[2]。その後、複数の認識論者が知的徳の概念を用いてゲティア問題や懐疑論などに取り組み、徳認識論は一つの研究領域として展開した[3]。徳認識論の内部には多様な立場が存在し、知的徳の本性に関する理解の違いから、徳信頼主義(英: virtue reliabilism)と徳責任主義(英: virtue responsibilism)に分類されることが多い[3]。近年では、悪徳認識論や認識的不正義といった関連領域との接続も論じられている。
アリストテレスと知的徳の伝統
知的徳という概念の起源はアリストテレスに求められる。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において道徳的徳と知的徳を区別し、知恵(ソフィア)や実践知(フロネーシス)といった知的徳を論じた。しかし、現代の分析哲学の文脈で「徳認識論」と呼ばれるアプローチが登場するのは20世紀後半のことである[4]。
ゲティア問題と現代認識論の背景
1963年、エドマンド・ゲティア(Edmund Gettier)は、知識の古典的定義である「正当化された真なる信念」(英: justified true belief; JTB)に対する反例を提示した[5]。ゲティアの反例は、正当化条件と真理条件がともに満たされていながら直観的には知識と認めがたい事例があることを示すものであった。これをきっかけに多くの理論が提案されたが、各立場間の論争はしばしば膠着状態に陥ったとされる[6]。
ソーサの登場と徳認識論の成立
こうした状況の中で、ソーサは1980年の論文「筏とピラミッド」において知的徳の概念を現代認識論に導入した[2]。ソーサは、基礎づけ主義(知識はピラミッドのように基礎的信念から積み上がるとする立場)と整合主義(知識は筏のように信念間の整合関係で支えられるとする立場)の対立を、知的徳の概念を用いて乗り越えられると論じた。この論文以降、複数の認識論者が知的徳の概念を用いてゲティア問題、内在主義と外在主義の論争、懐疑論といった問題に取り組むようになった[7]。 徳認識論の成立には、道徳哲学における徳倫理学の復興も影響しているとされる[8]。徳倫理学が行為の結果や義務ではなく行為者の性格特性を道徳評価の中心に据えるのと並行的に、徳認識論は認識主体の知的な卓越性を認識論的評価の中心に据える。ただし、両者の関係をどの程度密接に捉えるかは論者によって異なり、緊密な結びつきを認める立場から緩やかな類比にとどまると見る立場まで幅がある[9]。
主要なアプローチ
徳認識論の論者が知的徳の概念を用いて説明しようとする対象は一様ではない。知識の分析に知的徳を用いる立場(ソーサ、グレコ、ザグゼブスキなど)がある一方で、正当化の条件を徳の観点から再定式化しようとする立場もある[10][1]。さらに、知識や正当化にとどまらず、理解・知恵・知的繁栄といったより広い認識的達成を徳認識論の主題とする論者もいる[11][12]。このように徳認識論の射程は論者によって異なるが、知的徳を認識論的評価の中心に据えるという方向性は共有されている。 知的徳の本性をどのように理解するかに応じて、徳認識論は徳信頼主義と徳責任主義に分類されることが多い。この分類はアクステル(Guy Axtell)が1997年に定式化したものとして広く参照されている[3]。ただし、この二分法自体の妥当性を疑問視する議論も存在する[13]。なお、哲学文献では知的徳を「能力徳」(英: faculty virtue)と「特性徳」(英: trait virtue)に分ける語彙も用いられる。能力徳は知覚や記憶のような認知的能力を、特性徳は開放性や知的勇気のような性格特性を指し、おおむね徳信頼主義と徳責任主義の区別に対応するが、完全に一致するわけではない[14]。
徳信頼主義
徳信頼主義(英: virtue reliabilism)は、知的徳を真理の獲得に寄与する安定的で信頼可能な認知能力として理解する立場である[15]。知覚、記憶、内省、推論能力などの認知的能力が知的徳の典型例として挙げられる。先行するプロセス信頼主義(英: process reliabilism)の系譜に位置づけられるが、認知的プロセスではなく認識主体の能力や性向に焦点を移している点で区別される[8]。 ソーサは、信念が知的徳に基づいて形成されたとき正当化されると論じた[16]。ソーサの後期の理論では、パフォーマンス評価に関するAAAモデル(正確さ〔accuracy〕、巧みさ〔adroitness〕、適切さ〔aptness〕)が提示され、信念が真であるだけでなく能力の行使ゆえに真である場合に知識とみなされるとした[17]。 ジョン・グレコ(John Greco)は、知識と正当化された信念を「安定的で信頼可能な認知的性格に基づく」ものとし、認知能力だけでなく獲得された思考習慣をも知的徳に含めうるとした[18]。この定式化により、グレコの立場は徳責任主義が重視するような性格特性をも包摂しうるものとなっている。 徳信頼主義は、しばしば外在主義的な認識論の一形態として位置づけられる[7]。
徳責任主義
徳責任主義(英: virtue responsibilism)は、知的徳を注意深さ、知的勇気、公正さ、開放性といった培われた性格特性として理解する立場である[7]。アリストテレスの道徳的徳の理論との親縁性が比較的強く、認知における倫理的側面を重視する傾向がある。 ロレイン・コード(Lorraine Code)は、知的徳の本質は認識的責任(英: epistemic responsibility)にあると主張し、認識主体が共同体の一員であることを強調した[19]。リンダ・ザグゼブスキ(Linda Zagzebski)は著書『心の徳』(1996年)において新アリストテレス的な徳認識論を体系的に展開し、知識を「知的徳の行為から生じる信念」と定義してゲティア問題への解決を試みた[20]。ジェイムズ・モンマルケ(James Montmarquet)は「認識的良心」(英: epistemic conscientiousness)を主たる知的徳として挙げ、公正さや知的勇気がこの欲求を規制する必要があると論じた[21]。 徳責任主義は、しばしば内在主義と親和的とされるが[7]、そのプロジェクトは知識の分析にとどまらず、知的徳の教育的意義や認識論の倫理的・社会的次元の探究にも向けられている[11]。
両者の関係と分類をめぐる議論
徳信頼主義と徳責任主義の区別は広く用いられているが、この分類に対する批判もある。フライシャー(Will Fleisher)は2017年にこの区別の妥当性を問い直した[13]。 批判の要点は以下のとおりである。第一に、認知能力と性格特性のどちらが「真の」知的徳であるかを争うことの意義が疑問視されている。優れた知覚能力も開放性も知的に卓越した在り方の例であり、一方のみを知的徳とする主張は不毛であるとの見方がある[22]。第二に、完全な認識論には能力徳と特性徳の両方が不可欠であるとする議論がある。能力徳は外的世界についての知識を説明するうえで欠かせないが、理解や知恵といったより豊かな知的達成の説明には特性徳が必要になるかもしれないと指摘されている[23]。 グレコの徳信頼主義のように、安定した認知的性格の中に獲得された性格特性をも含めうる立場があることは、両陣営の間の境界線が必ずしも明確ではないことを示唆している[18]。
主な論点
ゲティア問題
徳認識論は、ゲティア問題に対する有力な解答の一つとして提示されてきた[24][25]。このアプローチでは、知識とは認識主体の知的徳「のゆえに」(英: because of)真理を信じている状態であるとされる。ゲティア事例では、認識主体の真なる信念は知的徳の行使のゆえではなく運によるものであるため、知識に該当しないと説明される。 ザグゼブスキはゲティア事例を「正当化条件と真理条件の結びつきが不運によっていったん断たれ、その後幸運によって回復される状況」として特徴づけた[26]。知的徳の行為を通じて真理に到達することが知識の必要条件であるため、偶然的な回復は知識の条件を満たさないとされる。 ただし、この解答に対する批判も提起されている。バール(Jason Baehr)やチャーチ(Ian Church)は、徳に基づくアプローチでもなお反例が構成できると論じている[27][28]。プリチャード(Duncan Pritchard)は、知識にはさらにモーダルな反運条件(安全性条件)が必要であるとする立場を提示した[29]。 こうした議論を背景に、徳認識論と反運認識論(英: anti-luck epistemology)の関係が論じられている。「強い徳認識論」(英: robust virtue epistemology)は、知的徳への帰属だけで知識の条件を満たすとする立場であるのに対し、プリチャードのように徳条件と安全性条件の両方を知識の要件とする立場は「穏健な徳認識論」(英: modest virtue epistemology)と呼ばれることがある[29]。徳認識論のみで認識的運を排除しうるか、それとも独立した反運条件が必要かは、現在も議論が続いている。
知識の価値
認識論における「価値問題」(英: value problem)とは、知識が単なる真なる信念よりもなぜ価値があるのかを説明する問題である。徳認識論はこの問題に対する応答を提供するものとして注目されてきた[24]。 徳認識論的な枠組みでは、知識は知的徳に基づく認知的達成として理解される。達成一般は運による成功とは異なりそれ自体に内在的価値があるとされるため、知識もまた単なる真なる信念よりも価値が高いと説明される[17]。この考え方は「功績テーゼ」(英: credit thesis)と呼ばれ、徳認識論においてしばしば中心的な位置を占めるとされる[30]。 クヴァンヴィグ(Jonathan Kvanvig)はこの枠組みに異議を唱え、認識論は知識よりも「理解」(英: understanding)に焦点を当てるべきであると論じた[12]。この議論は、徳認識論の内部において知識以外の認識的達成への関心を高める一因となったとされる。
内在主義と外在主義
認識論における内在主義と外在主義の対立は、信念の正当化が認識主体の内省によってアクセス可能な要因のみに依存するか(内在主義)、それとも主体が必ずしもアクセスできない外的な要因にも依存しうるか(外在主義)をめぐる論争である。徳認識論はこの論争に対してもしばしば言及される[7]。 徳信頼主義は、信念が信頼可能な認知能力に基づいていれば正当化されるとする点で外在主義的な傾向を持つとされる。認識主体が自身の認知能力の信頼性を内省的に把握している必要はなく、ソーサの枠組みは実質的に外在主義的基礎づけ主義の一形態であると評されることがある[10]。一方、徳責任主義は、認識的責任や知的性格を重視する点で内在主義と親和的な側面を持つ場合が多いとされる[7]。 ただし、この対応関係は単純化であるとの指摘もある。ソーサ自身は、徳認識論が内在主義と外在主義の対立そのものを乗り越えうると論じており[17]、内在主義的な要素と外在主義的な要素の双方を組み込む立場も提示されている。
証言と社会的認識
ラッキー(Jennifer Lackey)は、証言的知識(英: testimonial knowledge)が徳認識論にとって難題となることを指摘した[30]。徳認識論が知識を認識主体の知的徳に帰属可能な成功として理解する場合、証言的知識においては話し手の貢献の方が聞き手の知的徳よりも重要に見えるため、帰属が困難になると論じられている。 これに対する応答として、多くの知的徳はもともと社会的環境で行使される社会的徳であり、証言の信頼性評価にも社会的認知能力が関与しているとの指摘がある[18]。また、話し手への適切な信頼や敬意自体が知的徳の一形態であるとする議論もなされている。
批判
状況主義的批判
徳認識論に対する主要な批判の一つに、心理学の知見に基づく状況主義的批判(英: situationist critique)がある。徳認識論は一般に、知的徳を時間的に安定した性向として捉えるが、状況主義的批判は、人間の認知的行動が認識的に無関係な状況的要因(気分、社会的手がかりなど)によって大きく左右されることを実験的研究に基づいて主張する[31]。 アルファーノ(Mark Alfano)はこの問題を体系的に論じ、反懐疑論(ほとんどの人間はかなりの量の知識を持っている)、認識的状況主義(人間の知的性向は認識的に無関係な状況的要因に対して脆弱であるため徳ではない)、徳認識論の三者は同時に成立しない不整合な三つ組を構成すると指摘した[32]。
認識的個人主義への批判
徳認識論は、知識を個々の認識主体の知的徳に帰属させる傾向があるため、認識的個人主義に陥っているとする批判もある[30]。知識が社会的・制度的・技術的な環境に依存する度合いを徳認識論が十分に捉えていないとする指摘がなされている。 これに対し、近年では知的徳が社会的環境に埋め込まれ(英: embedded)、足場を与えられ(英: scaffolded)、さらには拡張されうる(英: extended)とする議論が展開されている[33]。
徳概念の説明力をめぐる批判
徳認識論に対しては、「知的徳」という概念自体の説明力を疑問視する批判もある。第一に、知的徳が認知能力を指すのか性格特性を指すのかが曖昧であり、概念の外延が広すぎるとの指摘がある[34]。第二に、徳認識論の諸理論は実質的にはプロセス信頼主義や義務論的認識論の言い換えにすぎず、「徳」の語彙を導入しても独自の説明上の利点はないとする批判がある[34]。フェアウェザー(Abrol Fairweather)は、知的徳の概念を独立した認識論的理論の基盤としてではなく、既存の認識論的立場を表現する語彙として用いるにとどまる「弱い」徳認識論の立場を指摘している[35]。 これに対して徳認識論の支持者は、徳の概念によって知識の分析、価値問題への応答、認識論と倫理学の統合的理解など、従来の枠組みでは得がたい理論的利点が得られると応じている[18][20]。
近年の展開と関連領域
悪徳認識論
悪徳認識論(英: vice epistemology)は、知的悪徳の本性とその認識論的意義を研究する関連領域である。カッサム(Quassim Cassam)は著書『心の悪徳』(2019年)において悪徳認識論を体系的に論じ、騙されやすさ、独断性、偏見、閉鎖性、怠慢などを知的悪徳として取り上げた[36]。悪徳認識論は、知的徳の分析を補完するものとして、知的悪徳の戒告的な分析を通じて認識論的洞察を深めようとする試みである[37][38]。
認識的不正義との関係
フリッカー(Miranda Fricker)が2007年に提示した認識的不正義(英: epistemic injustice)の概念は、徳認識論と密接な関係にある[39]。認識的不正義とは、発話者の属性に対する偏見に基づいてその証言の信頼性が不当に低く評価される「証言的不正義」や、社会的に周縁化された集団が自身の経験を理解するための解釈資源を奪われている「解釈的不正義」などを指す。徳認識論の観点からは、認識的正義は一つの知的徳として位置づけられうるとする議論がある[39]。この領域は社会認識論やフェミニスト認識論との接点を持つ。
理解・知恵への拡張
近年の徳認識論では、知識だけでなく理解(英: understanding)や知恵(英: wisdom)といった認識的達成にも関心が向けられている。クヴァンヴィグは理解が知識よりも認識論的に価値の高い状態であると論じた[12]。ロバーツ(Robert Roberts)とウッド(Jay Wood)は、個々の知的徳の精細な描写を通じて知的文化の改革と知的繁栄の促進を目指すべきであると論じている[11]。これらの動向は、伝統的な認識論が知識の分析に集中してきたことへの問い直しとも結びついている。