社会認識論

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社会認識論(しゃかいにんしきろん、: Social epistemology)は、知識の獲得・伝達・評価における社会的な側面を研究する哲学の一分野である[1][2]。人間の知識を集合的な営みとして捉え、証言(他者の言葉にもとづく知識)、専門家への信頼、集団の信念形成、認識的不正義など、個人を孤立させては説明できない知の問題群を扱う[1]分析哲学における認識論の下位分野として位置づけられるとともに、科学技術社会論(STS)などの学際的領域とも関連をもつ[1][3]

伝統的な認識論は、個人が自らの認知能力を用いていかに正しい信念を獲得しうるかという問題を中心に展開されてきた。ルネ・デカルトは自己の理性のみに依拠して確実な知識を構築する方法を論じ、ジョン・ロックもまた知的自立を重視した[1]。社会認識論は、人間の知識の多くが直接経験ではなく証言・教育・記録媒体を通じて獲得されるという事実に着目し、この他者への認識的依存が信念の正しさにどのように影響するかを探究する[1][4]

社会認識論の問題設定は大きく二つの方向に分かれる。第一は、個人間の認識的関係(証言、認識的信頼、認識的権威など)に焦点を当てるアプローチである。第二は、認識的共同体の水準(共同体の正当化基準、批判の手続き、多様性、認識的正義、集団知識など)に焦点を当てるアプローチである[1]

主要区別・方法論

社会認識論の議論は、以下のような複数の区別軸に沿って整理される[1][5]

  • 記述的/規範的 — 知識が実際にどのように社会的に条件づけられているかを記述する立場と、社会的条件をどう整えれば真理追求が促進されるかを規範的に問う立場の区別。哲学的社会認識論は後者を主として志向する。
  • 個人間アプローチ/共同体アプローチ — 証言や認識的信頼など個人間の関係に焦点を当てる研究と、集団知識・認識的正義・共同体の正当化基準など集団水準の問題に焦点を当てる研究の区別。
  • 真理志向(古典的)/構築主義的(批判的) — ゴールドマンに代表される真理主義的立場とフラーに代表される批判的立場の区別(→#主要アプローチ)。
  • 哲学的社会認識論/知識社会学・STS — 規範的な認識論的問いを中心に据える哲学的営為と、知識生産の社会的過程を記述的・実証的に分析する社会科学的営為の区別。両者は関連するが同一ではない(→#隣接分野との関係)。
  • 形式的/非形式的 — 数理モデルやシミュレーションを用いる形式的手法と、概念分析や事例研究にもとづく非形式的手法の区別。

歴史

先駆的議論

知識の社会的側面に対する哲学的考察は古代ギリシアに遡る。プラトンは対話篇『カルミデス』(紀元前380年頃)において、ある人物が専門家であると主張するとき非専門家にその真偽を判断しうるかという問題を提起した[6]。この問題は、現在の社会認識論で「専門家の同定問題」として論じられる論点の原型にあたる。

近世においては、証言を通じた知識の獲得が哲学的に論じられるようになった。デイヴィッド・ヒュームは、証言の信頼性を経験的証拠にもとづいて評価すべきだとする立場をとった。これに対しトマス・リードは、人間には他者の言葉を信じる傾向と真実を語る傾向が生得的に備わっていると論じ、証言を知覚や記憶と同様の基本的な知識源泉とみなした[1]。両者の対立は、現代の証言の認識論における還元主義と反還元主義の論争の出発点とされる。

20世紀の背景

知識社会学

19世紀から20世紀にかけて、知識と社会の関係は社会学の領域でも探究された。カール・マンハイムは1936年の『イデオロギーとユートピア』においてマルクスのイデオロギー論を発展させ、あらゆる知識が特定の社会的立場に条件づけられていると論じた[7]。こうした知識社会学Wissenssoziologie)の議論は、知識の社会的条件への関心を広めたが、主として記述的(「知識は実際にどのように社会的に条件づけられているか」を問う)な性格をもつ点で、規範的な問いを中心に据える哲学的社会認識論とは区別される[5]

クーン、フーコー、SSK

1960年代以降、トマス・クーンミシェル・フーコーの議論が、知識の社会的次元への関心を哲学の中心に押し上げる背景となった。クーンは1962年の『科学革命の構造』において、科学の発展にパラダイムの共有と科学者共同体の合意形成が関与していることを論じた[8]。フーコーは知識と権力の結びつきを分析し、何が「真理」として承認されるかを社会的・制度的条件から問い直す視座を提示した[1]

1970年代には、エディンバラ大学デイヴィッド・ブルアらを中心に科学社会学における「ストロング・プログラム」が展開された。これは、正しい信念と誤った信念を同じ種類の社会的要因によって対称的に説明すべきだとする方法論的主張である[1][9]。また、科学技術社会論(STS)も同時期に発展し、科学と技術の社会的埋め込みを学際的に分析する研究が蓄積された[1]

ただし、これらの議論は社会認識論の重要な背景をなすものの、哲学としての社会認識論の内部史とは同一ではない。クーンやフーコーの影響は「知識の社会的条件への関心を強めた背景」として位置づけられ、分析哲学における社会認識論の直接的な確立は1980年代後半以降の展開による[1][5]

現代分野としての成立

「社会認識論」(social epistemology)という用語は、1950年代にシカゴ大学の図書館情報学者マーガレット・イーガンジェシー・シェラが学術誌 Library Quarterly英語版 で使用したことに始まる[10][11]。ただし、この用語が現在の哲学的分野を指す意味で定着したのは1980年代後半以降である[1]

1987年は分野の成立においてしばしば画期として言及される年である。哲学雑誌 Synthese がこの年に社会認識論の特集号を刊行し、アルヴィン・ゴールドマンスティーヴ・フラー英語版がそれぞれ寄稿した[12]。同年にフラーは学術雑誌 Social Epistemology英語版 を創刊し、翌1988年に著書 Social Epistemology を出版した[3]。ゴールドマンは1999年に Knowledge in a Social World を刊行した[4]。両者のアプローチは大きく異なり、その対比はこの分野の基本的な座標軸の一つとなっている。

主要アプローチ

真理志向のアプローチ

ゴールドマンの社会認識論は「真理主義」(veritism)と呼ばれる[4]。このアプローチでは、真なる信念の獲得が知識の根本的価値とされ、社会的な制度や慣行は、それが真なる信念の形成にどの程度寄与するかという基準(「真理主義的価値」、V-value)によって評価される[4][13]。ゴールドマンはこの観点から、証言、専門家の信頼性、メディア、法的事実認定、民主主義的意思決定、教育などの社会的実践を分析した[4]

この立場は、伝統的な認識論の問題関心(真理、正当化、知識)を維持しながらその射程を社会的次元に拡張するものであり、分析哲学の主流に連続する「古典的」社会認識論として位置づけられる[5][14]

批判的・構築主義的アプローチ

フラーの社会認識論は、伝統的認識論の枠組みそのものを批判的に再検討する方向をとる。フラーの関心は、知識の真理条件を直接分析することよりも、知識生産の制度的配分と公共的統制のあり方に向けられている[3][15]。大学、学術雑誌、査読制度、科学政策といった知識生産の制度が、いかなる知識を正統化し、いかなる知識を周縁化しているかを問うことが、フラーの社会認識論の中心的課題である[3]

2012年、フラーは雑誌 Social Epistemology の創刊25周年に際して、ゴールドマン流の分析的社会認識論が「実際の知識実践に対する理解が乏しく、哲学者の役割を最小化し、認識論の現状維持に終始してきた」と評した[16]

形式的アプローチ

2000年代以降、数学的モデルやコンピュータ・シミュレーションを用いて認識的共同体の機能を分析する形式的社会認識論が発展した[1]。このアプローチは、ベイズ確率論にもとづく信念更新モデル、科学者の功績配分構造を扱う「クレジット・エコノミー」モデル、行為者間の情報伝播を分析するネットワーク認識論モデルなどに大別される[1]

ケヴィン・ゾルマンは、科学者共同体のコミュニケーション構造に関する初期の形式的モデルを提示した[17]。ケイリン・オコナーとジェイムズ・ウェザラルは、自分と異なる信念をもつ相手からの証拠に対して行為者が信頼を低下させるというモデルを構築し、合理的な個人の局所的行動から共同体レベルの安定した分極(ポラリゼーション)が生じうることを示した[18]。さらに、ある話題での一致が無関係な別の話題での意見相関を生み出す「認識的ファクション化」の現象もモデル上で再現されている[19]

形式的アプローチに対しては、高度に理想化されたモデルが現実の認識的共同体にどの程度適用可能かという問題が指摘されている。オコナーらの研究は、ゾルマンの初期モデルの主要な結果がパラメータ設定に依存しており、条件を変えると成立しない場合があることを示した[20]

主要論点

証言

社会認識論の最も基本的な論点の一つは、他者の言葉(証言)にもとづく知識の認識論的地位に関するものである[1]。「還元主義」の立場は、証言を信じることの正当性は知覚や推論など他の認識的源泉に最終的に還元されなければならないとする。「反還元主義」の立場は、証言はそれ自体が独立した知識の源泉であり、積極的に疑う理由がない限り証言を受け入れることにはデフォルトの正当性があるとする[1][21]。この対立は、エリザベス・フリッカー、コーディ、エドワード・クレイグらの研究を通じて展開された[1]

認識的信頼と社会的規範

証言、専門家への依存、ネットワークを通じた情報伝播といった社会認識論の諸問題を横断する中核的概念が「認識的信頼」(epistemic trust)である[1]。認識的信頼とは、ある主体が他者の報告や判断を自らの信念形成の根拠として受け入れる態度を指す。社会認識論ではこの信頼の配分がどのような規範に従うべきか、偏見や制度的構造が信頼をどのように歪めうるかが問われる[1][22]

高度に分業化された現代社会では、個人がすべての問題を自分で検証することは不可能であり、認識的信頼の問題は「専門家の同定問題」として具体化される。非専門家が複数の専門家の見解の相違に直面した場合に誰を信頼すべきかという問いに対し、ゴールドマンは議論の質、同分野の他の専門家からの評判、過去の実績、利益相反の有無などの手がかりを分析した[4]。ジョン・ハードウィグは、人間が認識的に不可避的に他者に依存していることを強調し、この依存関係を認識論の中心に据えるべきだと論じた[23]

認識的信頼は認識的不正義の問題とも密接に関わる。偏見にもとづく信頼性の不当な低評価(証言的不正義)は、信頼配分における社会的規範の歪みとして分析される[1]

ピア不一致

自分と同程度に有能で誠実であると認められる相手(認識的ピア)が、自分と対立する意見をもっていると判明した場合にどう対応すべきかという問題は「ピア不一致」(peer disagreement)と呼ばれる[1]。「融和主義」は双方が確信を下げて中間的立場に歩み寄るべきだと主張し、「固守主義」は自分に十分な理由がある限り信念を維持してよいとする[1]

集団知識・集団判断

集団や組織が信念をもつとはどのようなことかという問題も社会認識論の重要な論点である。マーガレット・ギルバートは「複数主体」(plural subject)の概念を提唱し、集団の信念が構成員の個人的信念の単なる集約ではなく、共同のコミットメントにもとづく独自のものでありうると論じた[1][24]

集団的判断については、「判断の集約問題」(discursive dilemma / doctrinal paradox)が知られる。これは、構成員が前提について個別に多数決を行いその結果から結論を導く場合と、各構成員が個別に結論を出してその多数決をとる場合とで、集団としての結論が矛盾しうるという問題である[1]

集団的正当化

集団が「何を信じるか」の問題とは別に、集団の信念が「どのような条件で認識的に正当化されるか」という問題も独立の論点として探究されている[1]。シュミットは、集団の信念が正当化されるためには全構成員が同一命題について正当化された信念をもたねばならないとしたが、この条件は厳格に過ぎるとして批判された[25]

ゴールドマンは個人の認識論における過程信頼性主義(process reliabilism)を集団レベルに拡張し、構成員の信念を入力として集団の信念を出力する「信念集約過程」の信頼性によって集団的正当化の度合いが決まるとする「社会的過程信頼性主義」を提案した[1][26]。これに対しジェニファー・ラッキー英語版は、集約的アプローチでは構成員間の証拠関係や職業的な認識義務を十分に反映できないと批判し、「集団認識的行為者アカウント」(Group Epistemic Agent Account)を提唱した[25]。ブラウンは、集団の正当化に際して構成員の証言的報告を重視しつつも、個々の構成員の信念が正当化されていることを要件としない立場を展開した[1]

認識的不正義

ミランダ・フリッカーは2007年の著書において、知識の実践に固有の不正義として「証言的不正義」と「解釈的不正義」の二形態を分析した[27]。証言的不正義とは、話し手がその社会的アイデンティティ(人種、性別など)に対する偏見のゆえに信頼性を不当に低く評価される現象である[27][28]。解釈的不正義とは、社会的に共有された解釈資源(概念や語彙)の構造的な欠落により、特定の集団の経験が十分に理解・表現されえない現象である[27][28]。フリッカーは後者の典型例として、「セクシュアル・ハラスメント」という概念が存在しなかった時代に女性が自らの経験を適切に表現する手段をもたなかったことを挙げている[27]

この概念は大きな反響を呼び、ホセ・メディーナ英語版エリザベス・アンダーソンらによって「認識的抑圧」「認識的搾取」「意図的な解釈的無知」などの関連概念が提案されている[28]

制度設計

社会認識論、とりわけゴールドマンの真理主義的アプローチにおいては、社会的制度や慣行を「真理追求をどの程度促進するか」という観点から評価する制度志向の分析が重要な位置を占める[4][14]。分析対象には、法廷の対審制度言論の自由の規範的根拠、メディアの報道慣行、査読制度、教育制度、科学における功績配分のルールなどが含まれる[4]

たとえばゴールドマンは、アメリカの刑事裁判における対審制度が事実発見にどの程度有効かを「真理主義的価値」の観点から検討し、またジョン・スチュアート・ミル以来論じられてきた言論の自由の認識論的正当化——多様な意見の競争が社会全体の真なる信念の増加に寄与するという議論——を社会認識論の枠組みで再定式化した[4]。フラーもまた大学や科学政策の制度設計を社会認識論の中心的課題としたが、その関心は真理促進よりも知識生産の公共的統制と認識的資源の公正な配分に向けられている[3][15]

政治認識論

民主主義社会における市民の自己統治と専門知識への依存の緊張関係は、「政治認識論」(political epistemology)ないし公共認識論として、社会認識論の中で独自の研究領域を形成しつつある[1]

中心的な問いの一つは、民主主義的手続きそのものに認識論的価値があるかどうかである。認識的民主主義の立場は、多様な市民が熟議を通じて集合的に適切な判断に到達しうると論じ、陪審制度や市民会議のような仕組みにおける認識的効力を検討する[1]フィリップ・キッチャーは「よく秩序づけられた科学」(well-ordered science)の概念を提唱し、科学の研究課題設定に市民の価値観を反映させるべきだと論じた[29]

政治認識論はまた、専門家の判断に対する市民の正統な不信と、誤情報に起因する不当な不信とをどのように区別するか、科学政策における「認識的分業」をどう設計するか、民主主義的意思決定において認識的不正義がどのように作用するかといった問題にも取り組んでいる[1]

現代的展開

認識的機能不全

ソーシャルメディアの普及に伴い、社会認識論の問題群はデジタル情報環境の文脈で再検討されている。近年の議論では、単なる誤情報偽情報の拡散にとどまらず、偏見にもとづく沈黙の強制、陰謀論的コミュニティの形成、制度的不信、認識的排除など、広範な「認識的機能不全」(socio-epistemic dysfunctions)が包括的に論じられている[1]

C・ティ・グエン英語版は、しばしば混同される二つの現象を区別した[30]。「認識的バブル」(epistemic bubble)とは、関連する声が偶発的に排除された情報環境であり、不足情報の提供によって解消されうる。「エコーチェンバー」(echo chamber)とは、外部の情報源が積極的に信用を失墜させられている社会的構造であり、外部からの情報提示がむしろ内部の不信を強化しうるため、解消がより困難であるとされる[30]

認識的機能不全の分析は、個人の認知的偏向だけでなく、情報環境の構造的特性に焦点を当てる点に特徴がある。クワシム・キャシアム英語版が論じる「認識的無頓着」(epistemic insouciance)のように、専門知に対する不注意な態度が認知的悪徳として分析されるほか、マイケル・リンチ英語版は他者から学ぶことを拒む「認識的傲慢」が公共的討論を損なうと論じている[1]。認識的不正義の研究との接点も大きく、偏見にもとづく証言の軽視や解釈資源の欠如が、誤情報への脆弱性を構造的に高めうることが指摘されている[1]

AI と証言

大規模言語モデル(LLM)の台頭は、証言の認識論に新たな問題を提起している。LLMの出力は意図的なコミュニケーション行為ではなく、話し手としての責任や誠実さを帰属しえないため、一部の研究者はこれを「疑似証言」(quasi-testimony)として人間の証言から区別すべきだと論じている[31]。一方で、AIシステムが実質的に認識的権威の役割を担いつつある状況に対応するため、証言概念の拡張や「人工的認識権威」(artificial epistemic authority)の概念化が試みられている[32]

民主主義と専門知

民主主義社会における市民の自己統治と専門知識への依存の緊張関係も、社会認識論で論じられる主題である。フィリップ・キッチャーは「よく秩序づけられた科学」(well-ordered science)の概念を提唱し、科学の研究課題設定に市民の価値観を反映させるべきだと論じた[29]認識的民主主義の文脈では、陪審制度や市民会議のような仕組みが、多様な市民の熟議を通じて集合的に適切な判断に到達しうるかどうかが検討されている[1]

隣接分野との関係

社会認識論は科学哲学と深く重なり合い、科学的知識の社会的次元(査読、追試、科学者共同体の構造など)を共有のテーマとしている[1]科学社会学(SSK)およびSTSは、知識生産の実態を記述的に分析する点で社会認識論と関心を共有するが、規範的な問いを中心に据えるかどうかで区別される[5]フェミニスト認識論は、ジェンダーが知識のアクセスや生産に与える影響を探究しており、認識的不正義の研究はフェミニスト認識論との交差点に位置する[1]図書館情報学は、「社会認識論」という用語の発祥地であり、知識の組織化・検索・流通に関する実践的知見を提供している[10]

批判

社会認識論に対しては複数の方向から批判が提示されている。伝統的な認識論の立場からは、知識概念を社会的文脈に拡張することで認識論固有の問題群(正当化の構造、懐疑論への応答など)が希薄化しうるという懸念がある。ウィリアム・アルストンは、ゴールドマンの Knowledge in a Social World で扱われている内容の多くが、一部の認識論者から「本来の認識論ではない」と見なされる可能性を指摘した[14]

真理志向のアプローチに対しては、フラーに代表される批判的社会認識論の側から、実際の知識実践に対する理解の不足や、既存の認識論的枠組みの現状維持に終始しているという批判がある[16]。逆に、構築主義的立場に対しては、科学的知識と疑似科学の認識論的区別を困難にする相対主義に帰着しうるという批判が、とりわけ1990年代の「サイエンス・ウォーズ」の文脈で提起された[1][9]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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