高穴穂宮 滋賀県大津市にあった宮 From Wikipedia, the free encyclopedia 高穴穂宮(たかあなほのみや)は古代近江にあったとされる宮である。『日本書紀』には高穴穂宮と記されるが、『古事記』と『先代旧事本紀』には志賀高穴穂宮と記される[1]。 高穴穂宮趾碑(滋賀県大津市) 概要 穴穂は滋賀県大津市穴太に比定されている。しかし穴太周辺で考古学的な遺構は全く確認されてない。[注釈 1]が、同地にある高穴穂神社[注釈 2]を宮址とする伝承がある[1]。 記紀による記録 日本書紀 景行天皇が景行天皇58年から崩御するまでの3年間、志賀に居して是を高穴穂宮とすると記し、次代の成務天皇は明確な宮の記載は無いが、この宮で即位し、この地において60年間統治したと推定され、仲哀天皇が即位2年目に笥飯宮に遷宮するまで3代の天皇が宮居したとする。 古事記 『古事記』には、成務天皇が近江の志賀高穴穂宮に居して天下を治めると記している[1]。 景行天皇、仲哀天皇が志賀高穴穂宮に居した記事はない。 近江王朝説 王朝交替説の一つで、三輪王朝と河内王朝に挟まれた景行、成務、仲哀の3代にわたって近江に本拠とした王朝があったとする学説。水野祐の三王朝交替説は諡号に「イリ」を持つ天皇皇族による三輪王朝と「ワケ」を持つ天皇皇族による河内王朝とするが、近江王朝は「タラシ」が諡号に含まれる3天皇1皇后[注釈 3]を根拠の一つとしている[2]。同時期には四道将軍を始め、尾張、丹波など畿外に関連した叙述が『記紀』に多くみられ、国造を置くなど王権による全国支配が進められたとされる[2]。 その他 若井敏明は纏向遺跡を崇神・垂仁・景行3代の王宮と仮定した上で、4世紀前半に廃絶した理由を、景行天皇が高穴穂宮に移ったことと関連すると見る[3]。 高穴穂宮比定地である穴太の対岸にある守山市伊勢町の伊勢遺跡や野洲市行畑の中畑・古里遺跡で弥生時代中期末~後期初頭の大型建物群が発見された。この建物群は近畿地方で最大級の規模で近江南部地域における政治・祭祀の中心地であったと推定されている[4]。 脚注 [脚注の使い方]注釈 [1]高穴穂宮という都がございます。ただし、この都は実在したのかどうかを含めまして、さらにいえば、景行天皇という天皇が実在したのか?どうかも含めまして色々議論があるところです。また、遺跡というかたちでの確認はまったくされておりません 「近江・大津になぜ都は営まれたのか?」 大津市歴史博物館 P53 [2]同社は明治以前には禅納大明神社とされていた[1]。 [3]景行天皇=オオタラシヒコオシロワケ、成務天皇=ワカタラシヒコ、仲哀天皇=タラシナカツヒコ、神功皇后=オキナガタラシヒメ[2]。 出典 [1]井上満郎 1978, p. 76-80. [2]井上満郎 1978, p. 80-84. [3]歴史読本編集部『ここまでわかった!「古代」謎の4世紀』(新人物文庫、2014年)65 頁。 [4]“弥生時代の大型建物跡見つかる、近畿最大級の規模 祭祀空間か 滋賀:朝日新聞”. 朝日新聞. 朝日新聞社 (2026年6月4日). 2026年9月14日閲覧。 参考文献 大津市 編『新修大津市史』 第1巻 古代、大津市、1978年。 井上満郎『高穴穂宮』。 Related Articles~TimelinesTop QsFact Checks