念林老人
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経歴
聖武朝の天平11年(733年)4月、写経所に服仕して、布施銭を充てられている[1]、天平感宝元年(743年)閏5月、千部法花経を充てられ[2]、同年6月、写経検定帳に見え[3]、また上紙注文にも見える[4]。
淳仁朝の天平宝字4年(760年)9月、奉写一切経所より請暇(臨時の休暇を申請すること)の限がすぎて召され[5]、同5年(761年)4月、上所より布施布を給されて[6]、同6年(762年)閏12月[7]よりより同7年(763年)2月[8]の間に、二部大般若経本充帳に見え、同7年4月、七百巻経本充帳にも見え[9]、同経料筆直を充てられ[10]、また仁王経を写し、綿を充てられて[11]、同8年(764年)9月、浄衣、筆墨直を充てられている[12]。
称徳朝の神護景雲2年(768年)閏6月[13]、8月[14]、9月[15]、11月[16]、12月[17]はいずれも奉写一切経司移に主典・正八位上として署している。同4年(770年)6月、一族の念林宅成を経師として貢進している[18][19]。
光仁朝の宝亀3年(772年)3月、墨を充てられ[20]、また奉写大乗経律論目録に名前が見え[21]、以後、奉写一切経所に服仕している。4月、借銭300文を借り[22]、8月、さらに1貫文を借りている[22]。9月、さらに120文を借り、時に番上(非常勤)と記されている[23]。12月、桑内真大宅の被進納の証と見え[24]、同4年(773年)3月、奉写一切経所より布施布を給せられ[25]、6月[26]、9月[27]、10月[28]、この年[29]ともに同様に記されている。
同6年(775年)12月の丸部人主の手実(個人が実情を申告した文書)に「佐官」とあり[30]、年月は未詳であるが、月借銭500文を借り、「主典」と記されている[31]。また、造東大寺司解に散位従六位下と記されているが、抹消されてもいる[32]。
奉写一切経所における写経のことは、以下の通りである。
- 宝亀3年(772年)4月[33]。5月[34]。6月[35]。7月[36]。8月[37]。9月[38]。10月[39]。11月[40]。この年[41]。
- 宝亀4年(773年)2月[42]。5月[43]。6月[44]。7月[45]。10月[46]。閏11月[47]。12月[48]。
- 宝亀5年(774年)2月[49]。3月[50]。10月[51]。11月[52]。
その手実については、
- 宝亀3年(772年)4月[53]。5月[54]。6月[55]。7月[56]。8月[57]。9月[58]。10月[59]。11月[60]。
- 宝亀4年(773年)2月[61]。3月[62]。4月[63]。5月[64]。6月[65]。7月[66]。9月[67]。10月[68]。
- 宝亀5年(774年)2月[49]。3月[69]。5月[70]。7月[71]。9月[72]。10月[73]。11月[74]。
- 宝亀6年(775年)正月[75]・2月[76]。4月[77]。6月[78]。
に現れている。