東大寺写経所

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東大寺写経所(とうだいじしゃきょうじょ)は、奈良時代に、東大寺に設置された写経機構(写経所)で、造東大寺司が管轄した。金光明寺写経所から改称した。

その起源は遅くとも藤原安宿媛(光明皇后)の皇后宮職写経所まで遡ると言われ、さらに東大寺の前身である「金光明寺」の写経所を経て東大寺写経所へと発展したものである。文献上の初見は、天平19年(747年)12月15日の東大寺写経所[1]である。「東寺写経所」と記されたものもある。造東大寺司に属して「造東大寺司写経所」とも言われ、写経の内容により、「写書所」・「写疏所」・「写後経所」・「奉写一切経所」とも称した。光仁朝宝亀7年(776年)6月の「食口案」が、古文書に見える最後の記述であるが、称徳朝天平神護元年(765年)から神護景雲3年(769年)までの5年間は、この写経所で写経が行われた形跡が見られない。神護景雲4年(770年)5月からは五部の一切経の書写が行われている。

一日の勤務人数は宝亀年間には最高で経師50人位、校生などを合わせて80人近いことがあり、一か月の写経能力は3,400巻であった。写経の底本である経典蒐集センターとしての役割も持ち、正倉院文書はこの写経所の文書や帳簿群である。

大量の写経が行われた経典

脚注

参考文献

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