天文19年(1550年)、秋月氏家臣の家に生まれた。恵利氏の祖は秋月種雄の弟・種久であり、その子孫の暢元は秋月氏の支城である恵利砦を守った。その子・暢素は槍術に秀で恵利三郎として恐れられた。暢堯は暢素より11代目にあたる。武勇に秀でるとともに文武の学を修めたと伝えられる。
暢堯は秋月氏の支城の中でも要害とされた荒平城を居城とし、三万石を領して各地の戦陣で武功を挙げた。天正10年(1582年)、龍造寺氏と島津氏が衝突した際、秋月種実は両者の対立を憂慮し、天正11年(1583年)7月、恵利暢堯を使者として派遣して和平交渉にあたらせた。この交渉は成功し、同月21日に和議が成立し、その証として暢堯の長男・成俊が龍造寺氏に人質として送られた。成俊は後に鍋島氏に仕え、秀島姓を称した。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州征伐が開始されると、秋月種実は徹底抗戦の構えを示した。暢堯は敵情を探るため派遣され、秀吉と対面した。この際、秀吉は降伏すれば秋月氏に筑前・筑後二国を与えると述べたと伝えられる。暢堯は帰国後、3月12日に秋月親子に対し、天下の形勢と秀吉軍の圧倒的な軍勢を説き、和睦・服従を強く進言した。
しかしこの諫言は受け入れられず、暢堯は主君を諌めるため、一死をもって示すほかないと決意した。同年3月14日、邸内を清め、武具を整理したのち切腹し、38歳で没した。その際、妻および長女・次女も殉死し、郎党の崎津与九郎も遺骸を葬ったのち殉死したと伝えられる。また家臣も多く殉死した。
暢堯が切腹した石は現在も福岡県朝倉市秋月に残り、昭和12年(1937年)には、子孫にあたる海軍少将・秀島成忠によって「恵利暢堯夫婦殉節之碑」が建立された。なお、暢堯の妻の兄は嘉麻郡弥山城主・弥山大学であった。