秋月種実
日本の戦国時代~安土桃山時代の大名。大友家・毛利家・龍造寺家・島津家の家臣。筑前古処山城主秋月文種次男で、秋月氏16代当主。秋月氏の最盛期を築いたとされる
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秋月 種実(あきづき たねざね)は、戦国時代末期から安土桃山時代前期にかけての武将・戦国大名。秋月氏16代当主。
| 時代 | 戦国時代末期 - 安土桃山時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 天文13年(1544年)または天文14年(1545年)[1]または天文17年(1548年) |
| 死没 | 慶長元年9月26日(1596年11月16日) |
| 改名 | 黒法師[2](幼名)→種実→宗誾(法号) |
| 戒名 | 西林院殿笑翁宗誾大居士 |
| 墓所 | 京都大徳寺、宮崎県串間市西林院 |
| 官位 | 左兵衛尉[3]、修理大夫 |
| 主君 | 毛利隆元→大友宗麟→島津義久 |
| 氏族 | 秋月氏 |
| 父母 |
父:秋月文種 母:原田義種妹・妙漢尼[4] |
| 兄弟 |
晴種、種実、高橋種冬[5][6]、長野種信[7][8]、 原田親種室[9][10]、長野助盛室[11] |
| 妻 | 正室:田原親宏長女 |
| 子 |
種長、高橋元種[12]、大膳、万吉、種至[13]、竹千代[14]、 竜子(城井朝房のち入江親茂室)、善法寺秀清室、加藤正方室、長野鑑良[15]室[16]、松浦定 (相神浦松浦氏18代目)室[17]、相良頼房室、板波長常室、秋月直正室[18][19] |
生涯
大友家との抗争
天文13年(1544年)[20]または天文14年(1545年)[21][22]、あるいは天文17年(1548年)[23]に生まれる。
筑前国の国人である秋月氏15代当主・秋月文種(種方)の次男として誕生したといわれる[24]。
年不詳ではあるが、天文17年(1548年)から永禄2年(1559年)の間に毛利隆元と兄弟の契約を結んでいる(『毛利家文書』、第310号「年不詳6月8日付毛利隆元自筆書状案」[25])。
弘治3年(1557年)、大内氏の内紛を好機とみた毛利元就は、大内氏の当主・義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。これにより毛利元就は、九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した(防長経略)。
同じく弘治3年(1557年)、秋月氏では、毛利元就の調略に応じて大友氏に反旗を翻し、父・文種や長兄・晴種が大友宗麟の猛攻を受けて自害したが、種実は家臣に連れられて弟2人(秋月種冬、長野種信)と古処山城の落城寸前に脱出し、毛利氏を頼って周防国山口に逃走した[20]。
永禄2年(1559年)1月、秋月氏の旧臣・深江美濃守は毛利氏の支援を得て、種実を居城に迎えると、古処山城を占拠していた大友軍を破り、秋月氏の旧領をほぼ回復した。種実の弟・種冬は高橋鑑種の養子として豊前国小倉城に入り、種信(鎮辰・鎮展)は長野氏を継いで豊前馬ヶ岳城主となり、次男の元種をも高橋鑑種の養子として香春岳城主となり[26]、それぞれ大友氏に対抗した。秋月氏の名が史上もっとも現れるのは、この種実の代からである。
永禄10年(1567年)、高橋鑑種が大友氏に反旗を翻すと種実も挙兵し、秋月氏は9月3日の休松の戦いで夜襲を敢行した。9月4日の夜半、風雨の強まる中、秋月種実は夜襲を決行する。2,000の兵を率いて、臼杵鑑速、吉弘鑑理(高橋紹運の父)の陣に[28]突撃した。秋月勢の夜襲で混乱状態に陥り敗走する鑑理・鑑速の兵が、戸次鑑連(立花道雪)の陣へと逃げ込んだ。鑑連はぬかりなく夜襲に備えていたが、なだれ込んできた敗走兵との同士討ちが始まってしまう。鑑連は同士討ちを演じる味方に怒り、同士討ちを収拾し、友軍の敗走を助けて追っ手の秋月勢を撃退したが甚大な被害を受け、全軍に後退を命じた先が山隈城(花立山)であった[29]。この戦いで戸次一族は打撃を受け、鑑連の弟・鑑方らが討死した[30][31][32][33][34][35][36][37][38]。
これにより毛利元就の九州侵攻も始まり、永禄11年(1568年)には立花鑑載が大友氏に反旗を翻すなど、一時は反大友勢力が優勢だったが、7月23日に立花山城が大友軍によって陥落し、8月19日、孤立を深めた秋月氏・宗像氏・城井氏・長野氏・千手氏・麻生氏は大友氏に降伏している[39][40]。
永禄12年(1569年)4月、毛利氏の大軍が再び立花山城を包囲したことを機に、種実は再び大友氏に反旗を翻した。しかし、5月18日に毛利軍が多々良浜の戦いで大友軍に敗れ、さらに居城・古処山城北側の馬見城を大友軍に攻め落とされたため、閏5月21日に一旦大友宗麟に降伏した。この際、もともと秋月氏領の南側に位置していた左右良(麻底良)城および杷木郷百六拾町の領地を、大友氏に属する問註所鎮連から返還された[41][42]。 しかし、その後も大友氏への抵抗を続けたとみられる。毛利氏は10月15日に九州撤退後[43]、11月15日に高橋鑑種が大友氏に降伏すると[44]、戸次鑑連が山隈城の秋月勢を攻撃し、これを受けて種実は再び大友氏に降伏した[45][46]。
最盛期
天正6年(1578年)に耳川の戦いによる大敗で大友氏が衰退すると、秋月種実は大友氏に再度反抗、龍造寺隆信や筑紫広門らと手を結んだ。さらに大友宗麟の「暴悪十ヶ条」を掲げて筑前とその周辺諸国へ触れ廻り、大友に背く者同士で連判し合った[3]。またこの年、種実の兵が太宰府天満宮本殿に放火している[47]。
大友家家臣・筑後国長岩城城主、問註所統景は、耳川の戦いで大友氏が大敗して影響力を弱め、代わりに肥前国の龍造寺氏が筑後で勢力を伸ばし諸勢力の殆どが大友氏から龍造寺氏に次々と寝返った後も、五条鎮定と共に大友氏に筋を通し筑前国の秋月氏らの監視に当たった。
天正8年(1580年)2月28日に、秋月氏は豊前の猪膝にて大友方田北紹鉄、朽網鑑康の兵8百人を討ち取るなどした[18][48]。しかし、種実の筑前侵攻は立花道雪と高橋紹運によって退けられてしまう。
天正12年(1584年)に龍造寺隆信が沖田畷の戦いで敗死すると、種実は代わって勢力を伸ばしてきた島津義久に従属する。種実は大友軍の立花道雪が島津氏と龍造寺氏を挟撃しようという使者を出す前に、いち早く龍造寺と島津の和睦交渉の橋渡し役となり、なおも大友氏に反抗。島津氏と龍造寺氏の争いを回避し、島津氏が大友攻略に戦力を絞る役割を果たした。
天正12年(1584年)8月、立花道雪・高橋紹運は大友氏の筑後奪回戦に参陣。紹運の子・立花宗茂は道雪出陣後、1,000程の兵力とともに立花山城の留守を預かることとなった。この時、立花山城に種実率いる8,000の兵が攻め寄せて来たが、宗茂はこれを撃破し[49][50][51]、更に西の早良郡の曲淵房助や副島放牛が拠る飯盛城など龍造寺氏の城砦を襲撃した[52][53]。
種実は、島津氏と大友氏の争いの中で大友領を侵食してゆき、最終的には筑前、豊前、筑後国北部に36万石にも及ぶ勢力範囲を有し、秋月氏の最盛期を築き上げる。また秋月城の周囲に「秋月二十四城」と呼ばれる支城を築き、重臣を配置して備えた[20]。
日向へ移封
天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州平定の軍勢が九州へ進軍した際に種実は、講和の使いと称して敵情を探らせるべく、重臣・恵利暢堯を秀吉の許へ派遣する。秀吉は圧倒的な富と物資動員力に支えられた自軍の威容を見せつけると恵利へ「降伏すれば種実へ筑前・筑後の二国を与え、恵利にも3万石を与える」とした[18]。
復命した恵利は、時代の流れを悟って秀吉に従うように諫言したが種実は恵利を面罵して退場を命じ、島津家との義盟に従い秀吉との抗戦を宣告した[18]。これを思い留めさせるべく恵利は妻子を刺殺した上で諌死に及んだが種実は応じず、島津方に与して秀吉率いる豊臣勢と戦い、敗北した。そして籠城中に秀吉得意の一夜城作戦(益富城)により、秀吉軍の実力を明確に思い知らされることとなり、完全に戦意を喪失して降伏することとなった。
このとき種実は剃髪し、楢柴肩衝と国俊の刀を秀吉に献上し、娘の竜子を人質に出したことにより秋月氏は存続を許されたが、秀吉の命令で日向国財部(後の高鍋)3万石に減移封された。種実はその際、「10石でもいいから秋月に居たい」と嘆いたとする[18]。失意の種実は、家督を嫡男の種長に譲って、串間の御館で隠居した[20]。また人質のような立場で京や大坂で暮らすことも多かったと伝わる[20]。またこの頃、明石に立ち寄り、後に兵庫県重要無形民俗文化財に指定される『大蔵谷の獅子舞』を伝えたとされる[54]。
慶長元年(1596年)9月26日、死去。京都で病没し享年49[23]、または高鍋で死没し享年52[20][22]。号は宗誾・笑翁[22]。
家臣
- 秋月宗全(嘉穂郡益富城主)
- 板波忠成(板並左京亮。朝倉郡阿弥陀ヶ峰城主)
- 板波長常(板並清左衛門。忠成の子。)
- 板波実理(板並平兵衛)
- 内田実清(内田土佐守)
- 内田彦五郎
- 内田壱岐守(実久の兄)
- 内田実久(内田善兵衛。朝倉郡弥永城主、上座郡左右良岳城(麻底良城)主)
- 内田彦太郎(実久の長男。)
- 内田長頼(内田四郎右衛門。実久の次男。御笠郡宝満城代)
- 税田宗雲(伊豆守)
- 税田玄尚(民部丞。宗雲の男。夜須郡片山城主)
- 税田弥左衛門
- 税田源介
- 税田神五兵衛
- 桑野実勝(新右衛門、兵部大輔。御笠郡岩屋城代)
- 隈江久重(熊井越中守。益富城代、田川郡岩石城主。[55])
- 隈江修理亮
- 大橋豊後守
- 芥田悪六兵衛
- 芥田惣六兵衛
- 芥田兵庫(嘉麻郡益富城番)[56]
- 吉瀬因幡守(上座郡(志波)左右良岳城(麻底良城)代)
- 吉瀬主水(上座郡(志波)左右良岳城(麻底良城)番)
- 吉瀬伊賀守(嘉麻郡二股岳城主)
- 桑原種清(桑原丹後守)
- 恵利暢尭(恵利内蔵助)
- 恵利暢武
- 恵利出雲守(穂波郡笠置城番)
- 坂田実久(坂田勘解由左衛門忠久)
- 坂田諸正(坂田越後守。坂田城主。休松城番)
- 坂田蔵人(鞍手郡龍ヶ岳城主)
- 坂田内蔵助(嘉麻郡奉行岳城主)
- 福武道恩(深江美濃守。福嶽、片山、千手、鼓嶽城主。秋月二十四城の1人。)
- 深江伯耆守(朝倉郡栗林城主、弥永城主)
- 古賀平左衛門(道場山城主)
- 木村種玄(木村日向守)
- 木村甲斐守(木村源太左衛門。上座郡長尾城主)
- 初山九郎兵衛(今山九兵衛。針目城主)
- 権藤蔵人(三笠郡鎧ヶ鼻城主)
- 乗手石見守(上座郡松尾城代、穂波郡笠置城主)[57]
- 柏江掃部(柏井九郎左衛門。穂波郡笠置城番)
- 志賀出雲守(穂波郡笠置城番)
- 黒瀬治部
- 深見駿河守(鞍手郡龍ヶ岳城番)
- 重松駿河守(鞍手郡剣山城主)
- 野中勘解由(鞍手郡剣山城番)
- 野中讃岐守
- 中願寺左近将監(上座郡(池田)三日月城主)
- 中願寺下総守(針目城主)
- 中元寺甚兵衛
- 野手讃岐守(上座郡(松末)真竹山城主)
- 香月九郎左衛門(上座郡(松末)真竹山城番)
- 松原越後守(上座郡(杷木)米山城主)
- 乙石刑部(上座郡鳥屋ヶ岳城主)
- 白木玄蕃允(上座郡白木岳城主)
- 日田近江守(上座郡(杷木林田)鵜木城主、筑後生葉郡長瀬城主。)
- 日田親永(日田安芸守)
- 問註所鑑景(町野鑑景、秋月治部少輔。問註所鑑豊の兄弟。生葉郡井上城主。[58])
- 星野高実(星野伯耆守、鎮豊?。星野正実(鎮忠・一閑)の子。生葉郡妙見城主。)
- 星野右馬(竹野郡麥尾城主)
- 大坪甚太郎(大坪神太郎。嘉麻郡山口城主)
- 大坪主税助
- 大坪伝助
- 大坪主水丞
- 大河内左衛門
- 大河内源次郎
- 大河内源五郎
- 大河内平内丞
- 香春源六(香春刑部少輔)
- 宮原源兵衛
- 萩原山城入道
- 萩原一雲
- 大山源左衛門(針目城番)
- 大山刑部丞
- 大山平右衛門
- 斎藤三河守[59]
- 木所刑部丞
- 横田讃岐守
- 長谷山民部少輔(夜須郡栗林城代)[60]
- 井田親之
- 井田親氏
- 綾部駿河守
- 上野四郎兵衛
- 堀江備前守
- 千手鑑元(千手美濃守、宗元、重盛。香春岳・鬼ヶ岳城主。)
- 町田実増
- 奈良原刑部少輔(牛頸(不動)城主)
- 奈良原兵庫助(牛頸(不動)城番)
- 三奈木彌左衞門
- 三奈木彌平次
登場作品
関連書籍
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- 中村知裕『戦国九州と秋月種実』(中世武士選書54)戎光祥出版、2025年、ISBN 978-4-86403-599-6