奕詥は道光24年(1844年)1月26日に生まれた。生母は琳妃烏雅氏(ウヤ氏)であり、醇親王奕譞の同母弟にあたる。
咸豊帝が即位すると、鐘郡王に封じられた。
同治帝の即位後、宴席での謁見や叩頭を免除され、上奏の際には名を記すことも許された。
同治3年には分府したが、引き続き宮廷内で勤務した。
同治7年(1868年)11月4日、奕詥は病により死去した。
諡号は「端」であり、子はなかった。
そのため、異母兄の恭忠親王奕訢の子である載瀅を後嗣とし、爵位はベイレ(貝勒)として継承された。
しかし載瀅は後に不祥事により爵位を剥奪され、系統は再び奕訢の家に戻された。
さらに、醇賢親王奕譞の子である載涛を後嗣とし、ベイレを継がせ、加えて郡王の称号も与えられた[1]。