道光11年(1831年)6月15日に誕生。生母は祥妃鈕祜禄氏である。
道光15年(1835年)12月15日、天然痘にかかり、快癒を祈願するための儀式が行われた。この際、祥妃は昇平署(宮廷の楽団)の宦官に恩賞を与えたが、道光帝は通常の慣例に従わず、これらの宦官に何の恩賞も与えなかった。この冷遇は、道光帝が奕誴の母・祥妃を嫌っていたためとされる。
道光21年(1841年)4月26日、道光帝は奕誴ら皇子たちに対し、曹八里屯の一時安置所で惇恪親王綿愷の棺の出発を見送り、献酒の儀式を行うよう命じた。
道光26年(1846年)1月、奕誴は綿愷の養子となり、多羅惇郡王の爵位を継承した。
咸豊元年(1851年)1月、皇帝が寿皇殿(歴代皇帝の位牌を祀る場所)で儀式を行う際、惇郡王奕誴は柳樹井の柵欄(宮廷の門)を通って入殿したが、このとき、満洲鑲黄旗(上三旗の一つ)の歩兵隊長・善興らが彼を阻止することはなかった。
同治4年(1865年)、宗人府宗令(皇族の戸籍や管理を司る長官)に任命される。
光緒15年(1889年)1月19日に薨去し、諡号を「勤」と賜る。同日、光緒帝は陀羅経被(仏教経典を織り込んだ布)を下賜し、総管内務府大臣・師曾に葬儀を執り行わせた。さらに、光緒帝は西太后とともに奕誴の邸宅を訪れ、弔問の儀式を行った。