綿愷
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嘉慶18年(1813年)、林清の乱が勃発した際、綿愷は異母兄綿寧(後の道光帝)と共に蒼震門で賊を討伐し、その功績を称えられた。
嘉慶24年(1819年)、郡王に封じられる。
道光元年(1821年)、親王に昇進。
道光3年(1823年)正月、内廷行走(宮廷内での役務)を命じられる。しかし、福晋(夫人)が轎に乗ったまま神武門を通過し、そのまま宮中にとどまったため、罰として王俸5年分を没収される。その後、皇帝が皇太后を連れて綿愷の邸宅を訪れたことで、再び内廷行走を命じられるが、罰は軽減され王俸3年分の没収に減刑された。
道光7年(1827年)、宦官の張明と私的に往来した罪、さらに宦官の苑長青を匿った罪で、郡王に降格される。
道光8年(1828年)10月、蒼震門での討伐の功績が改めて評価され、再び親王の位に復帰するも、皇帝から行動を慎むよう諭される。
道光13年(1833年)5月、皇后の喪儀について議論する際、「百姓如喪考妣,四海遏密八音(庶民が父母を亡くしたかのように悲しみ、天下の音楽がすべて止むべし)」という表現を使ったが、不適切であるとして、内廷から追放され、王俸10年分を没収された。
道光18年(1838年)5月、ある民婦穆氏が、「夫の穆斉賢が綿愷によって幽閉されている」と訴えたため、定郡王載銓に調査が命じられる。その結果、再び郡王に降格され、すべての職務を罷免された。
道光18年(1838年)12月、薨去。親王の位を追復される。皇帝自ら弔問に訪れ、諡号を『恪』と賜る。息子の奕纘は既に早世していたため、道光26年(1846年)、道光帝の第五皇子・奕誴を綿愷の養子とし、郡王の爵位を継承させた。