成松明賢は下益郡永村(現・熊本市南区城南町)杉上村(杉島手永)の出身で、天保8年(1837年)10月、父・弥三郎、母・小島氏の六男として生まれた。幼少より学問への志が強く、熊本出身の家風もあって藩に取り立てられ、嘉永3年(1850年)3月に帳書見習を仰せ付けられたことを公職の始まりとした。
文久3年(1863年)4月、航海術修行のため江戸へ派遣され、あわせて蘭学も修めた。のち藩軍艦に乗り組み、海外航海にも随行した。その航海術はきわめて優れており、中国・朝鮮・ロシア方面への遠洋航海において、航路測定や数理計算による航路判断を的確に行い、危険を回避しながら航海を成功させたという。
維新後は朝廷に登用されて海軍士官となり、航海長にまで進んだ。藩主細川家巡幸の際には、新たに購入された汽船龍驤など二隻の上で藩主側近として測量長などの任務にあたった。成松はのちに日本海軍初期の海図作成にも従事し、海図作成の草分けの一人とされる。
西南戦争では川村純義参軍らが高雄艦で薩摩方面に入り西郷隆盛に会見を試みた際、状況は一触即発であったが、成松は機会を正確に見極めて艦を操艦し、危険を回避したと伝えられる。このほかにも生死を分つ危険任務を幾度も成功させ、功績により勲五等・双光旭日章を受章した。のち海軍中佐、正六位となり、死去前に海軍大佐へ進級した。
明治16年(1883年)1月20日、48歳のとき眼疾を患って海軍を引退。その後は永村で村会議員・郡会議員・学務委員などを務め、20年以上にわたり郷里の発展に尽くした。誠実・勤勉・倹約を旨とする人柄であったと記録される。
1917年(大正6年)4月11日に病没。享年81。病状悪化の折に特別に従五位に昇叙された。妻・鈴木氏は先立ち、両名は永村の墓地に合葬された。