学校法人成蹊学園

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学校法人成蹊学園(がっこうほうじんせいけいがくえん)は、日本学校法人。理事長は、第16代三菱商事社長・小林健2026年現在)。

概説

1906年明治39年)、中村春二が現在の文京区西片に学生(翌1907年に「成蹊塾」と命名)を設立した[1]。「成蹊」の名は司馬遷が、「史記」(李将軍列伝)で引用した諺「桃李不言下自成蹊」に由来する。 や李(すもも)は何も言わないが、美しい花や良い香りの果実を求めて人が集い、その樹木の下には自然と蹊(こみち)ができるという李広将軍その人を讃えた故事である。桃や李は人格者であることの例えで、そのような人物は黙っていても徳を求めて自然に人々が集う、という意味を持つ。

これを元に中村は高等師範学校附属中学校(現、筑波大学附属中学校・高等学校)時代からの友人である今村繁三(後の今村銀行頭取)・岩崎小弥太(後の三菱財閥総帥)らと協力して1912年(明治45年)、現在の豊島区西池袋に成蹊実務学校を開設した。この成蹊実務学校が核となり今日の学校法人へと発展した。

1912年(大正元年)に成蹊実務学校、1914年(大正3年)4月に成蹊中学校、1915年(大正4年)4月に成蹊小学校1917年(大正6年)4月に成蹊女学校と成蹊実業専門学校が開校したことにより、中村春二が校長を務め、池袋目白に校地を有し、名称に「成蹊」を冠する5つの学校が出揃った。

5校の設立主体は、小学校および高等女学校は中村個人だが、中学校は中村春二が設立した財団法人私立成蹊中学校、また実務学校・実業専門学校は岩崎小弥太が設立した実業教育を主たる目的とする財団法人成蹊学園であった。女学校は中学校の保護者で秋田最上直吉銀行家衆議院議員[2]が寄付金を出資し、岩崎が継続的に他を出資した。しかしながら教育・経営の両立は安定性を欠いたものであった為、統合する方向へ舵を切った。

この統合には三菱財閥3代目当主である岩崎久弥の協力が得られ、1917年に賛助員となって岩崎小弥太と今村と共に各自5万円ずつを出資し校地1,4000坪の大部分を購入、将来的に財団の基本財産となる資産を蓄積し、新財団法人への移行準備に取り掛かった。翌年、東京府知事を通じ文部省(文部大臣中縞徳五郎)に提出、設立登記が行われた。1919年(大正8年)、成蹊実務学校・成蹊実業専門学校・成蹊中学校・成蹊高等女学校・成蹊小学校の5校が1つの財団法人成蹊学園に統合された。

1923年(大正12年)の関東大震災で校舎が全焼した東洋音楽学校(現・東京音楽大学)が池袋の成蹊学園校舎の一部を使用して授業を再開した[3]。創立者中村春二は、東京高等師範学校時代の東洋音楽学校創立者・鈴木米次郎の教え子であった。

1925年には成蹊高等学校(旧制)が設立された。 成蹊高校開校にあたり、三菱合資会社(後に三菱本社)社長であり、成蹊学園初代理事長だった岩崎小弥太が多大な支援を行い、実務学校の所在地であった池袋からの移転先として現在地の吉祥寺を選定するとともに、当地に所有していた1万余坪の農園と、新たに購入した隣接する8万余坪の広大な土地を併せ、個人的に成蹊学園に寄附した。私立の旧制高等学校としては旧制武蔵高等学校に次いで2番目の設立であり、全国に4校しかない私立の旧制高等学校の一角であった。旧制中学校に相当する修業年限4年の尋常科、大学予科相当の文科・理科からなる3年の高等科が設置された7年制の旧制高等学校である。


現在、運営する後述の各学校は武蔵野市の一角に集まっている。こうした立地を利用して、持続可能な開発のための教育を担う「成蹊学園サステナビリティ教育研究センター」のような小学校から大学までの共用施設も整備している。

学校法人明星学苑は、当法人職員が創立している。

設置校

脚注

関連項目

外部リンク

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