戴思遠
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はじめ朱全忠に仕え、軍事的な才幹で名を知られた。後梁の開平元年(907年)、右羽林軍統軍から検校司徒を加えられ、晋州刺史として出向した。開平2年(908年)、右監門衛上将軍に任じられた。ほどなく華州防禦使に転じた。開平3年(909年)、天武軍使から再び右羽林軍統軍に任じられた[1]。
乾化2年(912年)、郢王朱友珪が朱全忠を殺害して帝位を奪うと、思遠は洺州団練使となった[1]。乾化3年(913年)、検校太傅・邢洺節度使に進んだ[2]。燕の将の張万進が義昌軍節度留後の劉継威を殺害して、滄州ごと後梁に帰順すると、思遠は末帝の命を受けて滄州に駐屯した。貞明2年(916年)、晋王李存勗が兵を率いて滄州・徳州に迫ると、思遠は滄州を放棄して黄河を南渡し開封府に帰った。天平軍節度使に累進して、北面行営招討使を兼ね、兵を率いて李存勗と対峙した。龍徳元年(921年)、李存勗が張文礼を鎮州に討ち、契丹が来援すると、李存勗は幽州で契丹を襲撃した。思遠はこれを聞くと、兵を率いて魏州を襲い、魏県にいたった。龍徳2年(922年)、李嗣源の騎兵に遭遇したため、思遠は洹水を渡って、成安県を落とし、楊村寨を奪回した。徳勝口の北城を攻撃したが、符存審が抗戦したため、落とすことができなかった。李存勗が薊州から魏州まで5日で駆けつけると、思遠は包囲を解いて去った。李嗣源が鄆州を攻め落とすと、思遠は軍権を剥奪されて、威勝軍節度留後に降格された[3]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が開封府に入ると、思遠は鄧州から入朝して、後唐に帰順した。また鄧州に帰された。天成元年(926年)、明宗(李嗣源)が即位すると、思遠は武定軍節度使に転じた[4]。天成3年(928年)、太子少保として致仕した[5]。清泰2年(935年)8月27日、家で死去した[6]。