早稲田高等学院在学中に学徒出陣で中国に赴任。敗戦により捕虜となった後に復員し、早稲田大学に復学するが中退。1946年に共産党に入党し、1950年に脱党[1]。
人形劇団プークでの民主主義的文化活動などを経て画家となる。それと並行して日本の民俗史や民衆史などを研究。特に秩父事件の研究では第一人者とされている。
人形劇団プークのリーダーだった、川尻東次・川尻泰司兄弟の妹・錦子と結婚[1]。
2000年4月17日、胃がんにより死去。77歳没。同19日、東京都新宿区の観音寺にて「戸井昌造を送る宴」が行われた。