所得倍増解散
From Wikipedia, the free encyclopedia
1960年10月に行われた衆議院解散とそれに続く11月に実施された第29回衆議院議員総選挙から既に3年近い時間が経過した1963年の日本は内外の女医生徒も極めて平穏な状況にあり、そして池田内閣も順調で与野党の対立もとげとげしいものではなかった[2]。そんな中で1963年の政務次官会議で池田勇人首相は「1年以内に総選挙であろう」と述べた他は公式の場での解散問題についての発言には慎重を期し「世論の動向を見て」と態度を保っていた[3]。解散総選挙のスケジュールについて1964年の場合は東京オリンピックや7月の自民党総裁公選や9月の国際通貨基金(IMF)東京総会等のスケジュールがあって制約が多く、本予算成立後の4月・5月解散は7月の総裁公選をその前に棚上げできるかという問題をはじめ、いわゆる池田三選問題を中心とする党内各派の主導権争いから、1月解散は議員が金銭的に1月解散を好まない喜ばないことや1964年度予算の成立が遅れることから敬遠された[3]。1963年10月15日に第44回臨時国会が召集される時期には、国会議員の心理は衆議院議員総選挙に向けて動き出し、各党内に全国遊説や党公認候補の選考等の年内の衆議院解散と総選挙というムードが醸成されていた[4]。
国会召集から3日後の10月18日に池田首相は日比谷公会堂で催された自民党第演説会において「躍進する日本とその世界史的使命」と題する演説を行い、組閣以来の成果として「日本の経済成長率は諸外国と比べて大幅な伸びを示し、過去10年間で10%の成長を遂げていること」「国民一人当たりの所得は先進国には未だ及ばないものの、4、5年前には米国人の8分の1あるいは7分の1であったものが、今や5分の1にまで上昇してきたこと」「日本の工業生産は世界の第5位となり、テレビ等の消費財の普及にも目覚ましいものがあり、エンゲル係数は戦争直後の65~66%から、現在では40%を切るようになった」「日本経済の急速な成長は自由主義諸国の日本に対する信頼を深めることになった。なぜなら、それは欧米諸国にとって日本の経済成長が勤勉な労働力と豊かな購買力を証明する現象であり、しかも世界の繁栄と言う自由陣営に共通する目標を追求する能力を日本が持っていることを意味するからであり、そして日本が自由主義陣営らからの信頼を勝ち得たため、GATT三ヶ条は殆ど日本に適用されなくなり、さらに経済協力開発機構(OECD)への加盟も許されるようになった」としてそれらの事情を踏まえた上で平和外交、経済外交の強化を強く主張した[5]。
与野党ともに解散必死の政局の中で、補正予算案の審議が入るかどうかで与野党の駆け引きが見られ、社会党は予算審議に入ってから政府を追及して解散を有利に導こうとしていたのに対し、池田首相は10月21日の河上丈太郎社会党委員長の政府三演説に対する代表質問が終わった直後に解散することを構想していたが、前尾繁三郎自民党幹事長の意見で各党の代表質問に対する池田首相の答弁を終えた直後に衆議院解散となった[6]。
- その後の経緯は第30回衆議院議員総選挙を参照。