1964年自由民主党総裁選挙
From Wikipedia, the free encyclopedia
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1964年自由民主党総裁選挙(1964ねんじゆうみんしゅとうそうさいせんきょ)は、1964年(昭和39年)7月10日に行われた日本の自由民主党の党首である総裁の選挙である。
選挙戦は、現職の池田勇人が初回投票で過半数獲得による圧勝を目指す一方、佐藤栄作と藤山愛一郎は連携して決選投票に持ち込む戦略をとった。派閥間の金銭供与が激化したとされ、当時の新聞報道などでは「実弾」という隠語を用いてその熾烈さが報じられた[2]。
現職の池田勇人総裁の任期満了に伴い実施された。
三選を期する池田(宏池会)の他、佐藤栄作(周山会)と藤山愛一郎(愛正会)が立候補。特に佐藤は、1960年総裁選で十日会(岸信介派)とともに池田を推して池田政権誕生に貢献。政権前半は主流派を構成し、ポスト池田の最右翼とされながら、政権後半では他派閥を抱え込んだ安定政権を目指す池田と反目、反主流的立場に転じていた。池田と佐藤は「吉田学校」の同志であったことから吉田らは禅譲等の調整を望み、佐藤派のナンバーツーでありながら池田にも重用されていた田中角栄が池田との交渉に臨んだが不調に終わり、二人の対決は不可避となる。6月27日、直前の通常国会の閉会と同時に佐藤は科学技術庁長官を辞任する[3]。
自民党内の各派は、池田支持は自派の他に春秋会(河野一郎派)、交友クラブ(川島正次郎派)、睦政会(旧大野伴睦派)、佐藤支持は自派の他に党風刷新連盟(福田赳夫派)、藤山支持は自派のみで、当初は去就を明らかにしなかった政策研究所(三木武夫派)と水曜会(石井光次郎派)も程なくそれぞれ池田と佐藤の支持を表明。この時点で人数の上では池田が圧倒的優勢であった。しかし佐藤陣営は、池田系の各派への工作、メンバーの引き抜きを仕掛け、事態は金銭の授受による買収が横行する乱戦となり、票読みは不透明になった。
この選挙では、後の総裁公選でも使われるような、腐敗ぶりを表す隠語が生まれた[4]。すなわち、
- 生一本…所属している派閥の意向に従うこと。
- ニッカ…二派閥から金をもらうこと。
- サントリー…三派閥から金をもらうこと。
- オールドパー…あちこちの派閥から金をもらい、結局誰に投票したか不明なこと。
- トロール…グループ丸ごと買収すること。
投票2日前の8日、佐藤と藤山の間での一本化の動きが起こる。佐藤支持の石井とあわせて三者が会合したが、藤山は佐藤陣営の一部から投票前の撤退を求める声が出ていることに反発し、また、三位の候補の陣営が決選投票で二位候補へ投票する「2位・3位連合」も、藤山は"深入りしなかった"と述べている。
投票結果は、池田は一回目の投票で過半数を4票上回り、三選を果たすが、池田は佐藤・藤山の合計を40票上回るとの見通しを持っていたため(実際は10票)、ショックを受けていたという[5]。秘書官の伊藤昌哉はこれを「苦い勝利」と表現したが、池田を支持した松村謙三は「一輪咲いても、花は花」(池田を支持した松村謙三)と評した。
一方の佐藤陣営は、派閥の枠を超えて支持を呼びかけ、大野派や河野派、三木派といった党人派の池田支持グループの中にも支持を確約するものが少なくなく[6]、藤山派との連携により決選投票での逆転勝利に自信を見せていただけに、落胆は大きかった[注釈 2]。メディアは池田優勢の報道を続け、投票日の前日の朝日新聞は「池田圧勝」を報じていたため、そのことが「勝ち馬に乗る」議員心理に与えた影響が少なくなかったとされ、佐藤陣営は「新聞にやられた」と悔しがった[7]。
また、佐藤陣営の側から見た敗因として福田赳夫は、①前述の情勢報道、②佐藤派と藤山派の調整不足(元来藤山派内には池田支持・佐藤支持の対立があった上、藤山本人は必ずしも佐藤との連携に積極的ではなく、2位・3位連合が成立したのは総裁選の2日前だった)、③佐藤支持であるはずの石井派の統一が不十分で、池田派に切り崩されたこと、を挙げている[8]。
- 後日談
三期目をスタートさせた池田であったが、その後体調を崩して入院、その結果喉頭癌が発見される(本人には告知されず)。総裁選から3か月後の10月25日に辞意表明したため後継の総裁を選出することになるが、先の総裁選での遺恨が残っていた党内では、再度の総裁選は避けたいという機運が高まり、話し合いにより、前回総裁選で次点であった佐藤が後継総裁となった(池田裁定)。
選挙データ
選挙活動
選挙結果
エピソード
逆に池田陣営から見て興味深い動きをした一人が田中角栄(当時大蔵大臣)である。田中は佐藤派であったが、池田とは旧知で力を貸していた[10][11]。佐藤派幹部で池田と口が利けるのは田中だけで[12]、池田と佐藤を繋ぐ者は当時すでに議員を引退していた吉田茂を除くと田中しかいなかった[12]。総裁選の間、田中は佐藤派の事務所にはほとんど姿を見せず、1回来たが挨拶しただけで帰ってしまった[10]。佐藤も田中の微妙な立場は知っていて「田中のことは触れるな」と言っていたという[10]。田中が積極的に佐藤側に付いていれば佐藤が勝ったといわれる[10]。田中は結果的に自派の会長である佐藤を裏切った形となったが、池田の近くにいたため、上述の池田退陣の際、病床の池田を見舞い、最も早く池田の病状や胸中を察知でき、池田が「後継を佐藤」と判断しているという認識を佐藤に橋渡しすることで、佐藤への義理を返すこととなった[10]。
さらに大野伴睦及び大野と親しかった渡邉恒雄の動きがあった[13]。池田にとって大野派の支持は決定的に重要だったが[14]、総裁選を目前に、副総裁だった大野は脳溢血で倒れた(5月29日死去)ため、池田には痛手と報じられた[15]。大野自身は池田と近く佐藤嫌いで知られたが、大野派内部では総裁選で池田を推すか佐藤を推すか、意見が分かれていた。渡邉は池田支持だったため、病床の大野に「あなたは佐藤には騙されたことがあるが、池田には騙されたことがない。今回も池田を支持すべきだ」と話したが、大野はかなり容体が悪く返事がない。渡邊は秘書の山下勇や中川一郎と仕掛け、大野が権力を維持するためには、大野が元気で、しっかり意思表示できるという証明がいると、まず面会謝絶にして、大野が毎日俳句を作っていることにしてそれを記者会見で発表した。俳句は多少心得のあった大野の第3秘書が書いた。その後、渡邉が大野事務所に行き「大野さんは池田支持に決めた」とみんなに言うと幹部の船田中や原健三郎が「大野先生の意向は決まった」と叫び、大野派40名が池田支持に回った[13]。渡邊はこの功績によって池田に可愛がられるようになり、大野派を継いだ船田派番となり、旧大野派の窓口になって池田に直接閣僚人事を交渉したという[16]。