手代木渉

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手代木 渉
Wataru TESHIROGI
勲二等旭日重光章を佩用している
生誕 1925年5月6日
日本の旗 日本 福島県喜多方市
死没 2007年3月7日(2007-03-07)(81歳没)
日本の旗 日本 福島県喜多方市
出身校 旧制 喜多方中学校
岐阜高等農林学校 獣医科
東北大学 理学部 生物学科 
職業 獣医師生物学者教育者弘前大学学長
配偶者 淑子(しゅくこ;旧姓、渡部 わたなべ)
栄誉 勲二等旭日重光章
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国テキサス州ラボック市名誉市民
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手代木 渉 (てしろぎ わたる; 1925年(大正14年)5月6日  2007年(平成19年)3月7日) は、主に昭和時代の第二次世界大戦後に活躍した発生生物学者で、弘前大学理学部(現、理工学部)教授、学生部長、学部長、学長を歴任した[1][2]。プラナリア(ウズムシ)の研究で理学博士(東北大学1962年)[3]、後に斯学の国際学会(Turbellarian Biology 1990)を主催した[4]

The Sixth International Symposium on the Biology of the Turbellaria(Hirosaki, 1990)主催ホスト役への感謝状寄せ書き

1925年(大正14年)5月6日]、福島県耶麻郡豊川村沢部(現、喜多方市豊川町沢部長尾)に生まれる。父の名は藤一(とういち)母の名はマツヨ、四男だった。生家はかつて世襲の肝煎(きもいり)の家系。会津盆地北西部に位置する稲作を主とする農村で自然が豊かな地元の村立豊川小学校(現、喜多方市立豊川小学校)に通学した[5]

1942年(昭和17年)福島県立喜多方中学校(現、福島県立喜多方高等学校)を卒業して[6]岐阜高等農林学校(後の岐阜大学農学部を改称した現在の同大応用生物科学部)に入学、1945年(昭和20年)獣医科を卒業し獣医師となる(V4クラス[7])。その後、東北帝国大学に入学し、1949年(昭和24年)名称変更となった東北大学の理学部生物学科を卒業した[5]。卒業後も継続したプラナリアの研究をまとめ、1962年(昭和37年)2月3日付けで東北大学より理学博士の学位を受ける。論文題目は「ウズムシの再生現象の実験形態学的研究」[3]

職歴と晩年

1949年(昭和24年)、東北大学を卒業した年に新制の国立大学も発足することになり弘前大学に採用が決まっていたが当年度の定員の関係で待機せざるをえず、故郷の会津にある当時の福島県立山都高等学校(後に福島県立耶麻高等学校、現在は福島県立会津農林高等学校に吸収合併)に1年間奉職した[8]

1950年(昭和25年)4月、弘前大学に着任し、当時の文理学部(後の理学部、現在の理工学部)の講師となる。1962年(昭和37年)の理学博士取得を経て、1976年(昭和51年)理学部教授、1982年(昭和57年)学生部長、1985年(昭和60年)理学部学部長、この間に学生部長も一時兼任する[5]。1992年(平成4年)2月1日、第10代弘前大学学長に就任、1996年(平成8年)1月31日退任[2]。2000年(平成12年)秋の叙勲で勲二等旭日重光章を受章し、妻(淑子)と共に伝達式に上京した[7]

晩年は弘前を去り、故郷喜多方市において、生物学者としての知識を活用し、ホタルの生態保存やホタルに関する社会教育活動に尽力した[8]。また、この頃、自らの足跡を客観的記事をもとにして綴った自費出版書『写真と新聞記事等で綴る二つの山河 : 足跡ビジュアル版 : 1925-2000』も執筆している[9]。 2005年(平成17年)9月27日に柳津町の「花ホテル滝のや」でホタルに関する講演を行った2年後、2007年(平成19年)3月7日午前6時逝去、享年 81[10]。告別式は、同3月11日だった[11]

主な業績

学術・教育・国際性

日本のプラナリア(ウズムシ、渦虫)研究の第一人者であることは業績(著書・論文)に明らかであり、動物学会の著名人であった[12]。プラナリアは再生能力が非常に高い生物として知られ、再生研究においてプラナリアは重要なモデル生物として利用されているが、扱いは簡単でなく、実験動物としての基本的取り扱いの開発と普及に努めた意義は大きい[13]

プラナリアは切り刻まれても、その細胞は分化能力を持ち、再生に必要な組織や器官を再建することができる。その再生能力の研究は発生学と深い関連があるが、それはこのような再生能力のメカニズムの理解が発生学に資するからである[14]。このことにいち早く着目し、論文のキーワードとして「発生学」としばしば書き添えた[15]

再生に関与するシグナル経路や遺伝子の働きがどのようにして再生を促進するのか[16]などの手代木の研究の意義は、発生学の知見を基にして、将来的には人間の再生能力の向上や治療法の開発につながる可能性を秘めていた[17]

研究者としての手代木は、同時に教育者としても卓越していて、国立短期大学協会会長[5]、学生部長、学部長、学長を歴任したほか、晩年も故郷においてホタルを中心とした生物学教育・啓蒙や、地元の国立大学福島大学の経営に学外から協力した[18]。   

手代木が国際性に着目して研究と教育を展開したことは、テキサス工科大学(Texas Tech University)での在外研究(1972年、昭和47年)において、同地テキサス州ラボック市(Lubbock)の名誉市民となったほか、国際シンポジウム:The Sixth International Symposium on the Biology of Turbellaria(1990年、平成2年)の開催委員長を引き受けたことに現れている。

社会活動

弘前大学生物学科元教員の城田安幸は、1963年当時の弘前大学は「もの言えぬ」大学であり、国立大学74校中教職員組合のない大学は3校、その一つが弘前大学であったが、手代木先生たちは「首を覚悟」で組合設立運動をすすめられたと述懐している[19]。学窓にありながら、社会における生活者としての視点を失わなかったことは、その後も変わらず、教育・研究産業界に従事する者の健康に留意していた[20][21]

手代木は、1978年(昭和53年)5月23日から6月30日にかけ、ニューヨークで開催された第一回国連軍縮特別総会に日本代表団の一員として派遣された[22]

主要著書および論文

脚注

関連項目

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