折従阮
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麟州刺史の折嗣倫の子として生まれた。温厚な性格で、弱冠にして父の喪に服し、孝行で知られた。晋王李存勗が河北の地を領有すると、代北の諸部がたびたび侵入したので、従遠は河東牙将に起用された。天祐8年(911年)、府谷県に府州が置かれると、従遠は府州刺史に任じられた。後唐の長興元年(930年)、入朝して検校工部尚書を加えられ、再び府州刺史に任じられた[1][3]。
後晋の天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、契丹に援助された恩義に報いるため、燕雲十六州を割譲した。このため従遠は府州の北部を契丹に譲った。契丹が河西の民を遼東に移そうとしたため、従遠はこれを阻んだ。天福7年(942年)、少帝石重貴が即位すると、契丹と絶交したため、従遠は命を受けて軍を出した。天福8年(943年)春、従遠は兵を率いて北辺に深入りし、十数の寨を攻め落とした。開運元年(944年)、検校太保を加えられ、府州団練使に転じた。この年、朔州刺史・安北都護・振武軍節度使・契丹西南面行営馬歩軍都虞候を兼領した[4][5]。
天福12年(947年)、後漢の高祖劉知遠が太原府で帝を称し、兵を率いて南下すると、従遠は部下を率いて劉知遠に帰順した。ほどなく府州に永安軍節度が置かれると、振武軍の勝州と黄河沿いの5鎮を分割して永安軍に属した。従遠は光禄大夫・検校太尉・永安軍節度・府勝等州観察処置等使に任じられ、功臣の名号を賜った。この年、高祖劉知遠の諱を避けるために、名を従阮と改めた。乾祐元年(948年)、特進・検校太師を加えられた[6][5]。乾祐2年(949年)、岐国公に進封された[7]。乾祐3年(950年)、従阮は一族挙げて入朝し、その子の折徳扆は府州団練使となり、従阮は威勝軍節度使に任じられた[6][5]。
後周の広順元年(951年)、太祖郭威が即位すると、従阮は同平章事を加えられた。ほどなく義成軍節度使となり、さらに保義軍節度使に転じた。広順2年(952年)冬、静難軍節度使に任じられた。顕徳元年(954年)、世宗柴栄が即位すると、従阮は侍中を加えられた。老齢のため交代を願い出て、世宗に許可された。顕徳2年(955年)冬、開封府に向かう途中、洛陽で病没した。享年は64。中書令の位を追贈された[6][5]。