境高では、1949年秋季中国大会準決勝に進むが米子東高に敗退。翌1950年夏の甲子園予選東中国大会でも準決勝に進出するが、またも米子東高に敗退し甲子園出場を逸する。米子鉄道管理局を経て、1952年に近鉄パールスへ入団。
1956年3月24日の東映フライヤーズ戦でプロ初勝利を記録した。同年は主に中継ぎとして18試合に登板。しかし公式戦ではその1勝のみで、同年オフに24歳にして現役を引退。
引退後は積水化学工業に入社し野球部監督をつとめた。1963年からは、積水化学工業のグループ企業の積水スポンジ工業(現・積水化成品工業)に転籍[2]。
2011年7月21日、慢性胸膜炎のため奈良県天理市内の病院で死去[3]。79歳没[1]。