使用が認められていない司法機関が真相究明のために用いるかもしれない拷問。テレジアナ法典(1768年)より。
拷問台は古代からあり、どの文明が発祥かも正確には不明だが、現在にわかる最古の例は古代ギリシャである。ギリシャ人はその初期において奴隷や非市民を拷問する手段として用いていたと考えられており、後には紀元前356年にアルテミス神殿に放火し、焼失させたヘロストラトスに自白させるために用いた特殊な例もあった[4]。アッリアノスの『アレクサンドロス東征記』では、紀元前328年にアレキサンダー大王が、自分への暗殺を企てた人物と、その師である宮廷歴史家のカリステネス(英語版)を拷問台に掛けたと記されている[5]。
タキトゥスによれば、皇帝ネロの暗殺が企てられた紀元65年のピソの陰謀(英語版)において、仲間の名前を吐かせようと、計画者の一人、自由民の女性エピカリス(英語版)が拷問台に掛けられたという。彼女は口を割らず、翌日に椅子に乗せられ(四肢がすべて脱臼していたため立つことができなかった)再び拷問台に連れていかれる途中で、椅子の背についていたわっか状の紐で自分の首を絞め自害したという[6]。
拷問台はサラゴサのヴィセンテ(紀元304年)など初期のキリスト教徒にも用いられ、テルトゥリアヌス教会とヒエロニムス(紀元420年)によって言及されている[7]。
イギリス(イングランド)に始めて拷問台が登場したのは、ロンドン塔管理長官(英語版)であった第2代エクセター公ジョン・ホランドが1447年に導入したのが始まりと言われている。このため、拷問台は「エクセター公の娘(the Duke of Exeter's daughter)」という愛称で知られた[1]。
リンカンシャーの騎士ウィリアム・アスキュー卿の娘で、プロテスタントの殉教者アン・アスキュー(英語版)は、1546年(25歳没)に火炙り刑にされる前に拷問台による拷問を受けた。彼女は聖書を研究し、詩の暗唱でも知られていた。そして、処刑まで自分の信念を貫いたと考えられている。拷問台によって身体に障害を受けた彼女は、椅子に乗せられて火炙りの処刑台に送られたという。彼女が非難された理由は、(1)女性が聖書について語ることは許されない(大司教)[注釈 1]、(2)聖餐式(聖体祭儀)が文字通りのキリストの肉、血、骨であることを公言しない(ウィンチェスター司教)、であった。イングランドの宗教改革はこの10年前から始まっていたにもかかわらずである。
カトリックの殉教者・聖ニコラス・オーウェンは、聖職者の巣穴(カトリック司祭を匿った隠し部屋)の建築で有名な人物であったが、1606年にロンドン塔において拷問台に掛けられ獄死した。また、1605年の火薬陰謀事件に加担したガイ・フォークスも、拷問を許可した王室の令状が残っていることから、拷問台に掛けられたとみなされている。ただし、この令状では最初は「軽度の拷問」とし、それでも自白しない場合に、拷問台の使用許可を与えるというものであった。
1615年、大逆罪に問われたエドモンド・ピーチャムという聖職者が拷問台に掛けられている。
1628年、枢密院で、初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズを暗殺したジョン・フェルトンに対して、拷問台を施すという提案がなされ、その合法性が問題視された。裁判官たちは提案に抵抗し、全会一致で拷問台の使用はイングランド法に反すると宣言した[1]。この前年、チャールズ1世はアイルランド法廷においてカトリックの司祭に拷問台を用いることを許可していた。このため、これがアイルランドにおける最後の拷問台の使用例と見られている。
1679年に尊敬されている治安判事エドモンド・ベリー・ゴッドフリー卿の殺害容疑で取り調べを受けた銀細工師マイルズ・プランスは、少なくとも拷問台に掛けるという脅しを受けていた。
ナウトゥ(英語版)(ロシアの刑罰用の鞭)でむち打ちの刑を受ける男
18世紀までロシアで用いられていた拷問台(дыба, dyba)は、対象を吊るす絞首台のような装置であった。吊るされた犠牲者はナウトゥ(英語版)(ロシアの刑罰で用いられた革の鞭)で打たれ、時に松明の火で焙られた[9]。