南方殿の名は矢野荘保内郷南方を知行したことに由来する。『群書類従』に収められた「摂津親秀譲状」によると、伊予国矢野保内南方(八幅浜分を除く)は南北朝時代初めの暦応4年(1341年)に摂津親秀(摂津親鑑の弟)から庶子である摂津親憲に譲られている。後に保内郷(矢野荘内)を支配した摂津氏は南方殿と称されることから、親憲の子孫が南方殿摂津氏の始祖となったと考えられる[2]。
南方殿摂津氏は保内郷の五反田村に元城を築いたが、戦国時代に至るまで南方殿の事績は不明である。戦国時代末期には南方殿として摂津豊後守実親が見え、萩森殿宇都宮氏と争い、八幡浜の内の浜田で討死したというが、その年代は不明である。その後は永禄年間末から天正初年にかけて実親の子と考えられる摂津伊予守親安の活動が見られる。居城である元城の陥落後は仏門に入り法名を一安と称し、下間浦に墓所があると伝えられるものの、元城陥落の時期は不明である。親安の子と考えられる摂津久五郎親宗は最後の南方領主である。天正13年(1585年) の豊臣秀吉による四国攻めの際には戦わずして小早川隆景に降伏した。親宗の子と見られる摂津彦右衛門親興は天正14年(1586年)1月に安芸国多万里において歌書をなしたという。この親興は『宇和旧記』によると南方領を失って以後、仕官の道を求めて安芸国へ渡り、流浪の内に和歌を学んだという[3]。
一族には本家の家老となった実親の弟・摂津伊豆守親綱やその子の主水親家がいた[4]。時期は不明だが、末裔の惣右衛門は矢野氏を称し、舌間浦・栗野浦の庄屋役を務め、子孫に矢野氏と千束氏がいるという[5]。