教坊
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歴史
唐代・教坊の妓女
崔令欽「教坊記」によると、唐代の教坊に在籍する妓女は、宮妓だけでなく、広い範囲から選ばれた。
容貌と芸に優れ、選抜されて、太極宮にある宜春院に入ったものが「内人」(または前頭人)と呼ばれた。内人は重んじられ、その中でも皇帝から寵愛を得たものを「十家」と呼ばれ、宮城に屋敷を与えられた。内人は毎月、2または16日、もしくは誕生日に家族と面会できた。また、他の妓女とは異なり、魚袋を身につけていた。
宮廷の宴楽の際、内人だけで足りない時は、「宮人」が加わった。宮人は宮妓からなった。平民の子女が容貌により選ばれたものは、「スウ(手偏に芻)弾子」と呼ばれ、五弦・琵琶・箜篌・箏を学んだ。また、宜春院や教坊の見習いを「雑婦女」といった。
玄宗は自ら指揮して、妓女たちに歌舞を行わせ、そのもとで数多くの楽曲が創作され、演じられた。教坊の妓女たちは仲の良いもので、香を焚いて義兄弟となることを誓い合う習慣があり、これを香火兄弟といった。兄弟は突厥の一妻多夫制を参考に作られたと[2]され、多いときは、14、15人。少ない時でも、8、9人はいたという。身分あるものに呼び出された場合、宮廷の外にでることも許され、その時には、その香火兄弟もついてきて、呼び出した官人と、親密な仲になることもあった。その際、「兄弟」と親しい官人は「嫁」と呼ばれ、最も親密な妓女によって、たとえば男が「長男」と近しかった場合、他の兄弟は彼を「兄嫁」と呼んだ[3]。年を取ると、宮廷から出ることを願い出ることもでき、比較的自由な立場であった。