敬括
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秘書郎の敬徳の子として生まれた[1]。若くして文章の辞句で知られた。進士に及第し、さらに制科に応じて、右拾遺・内供奉・殿中侍御史を歴任した。天宝末年、宰相の楊国忠が自分につかない者を地方に出させると、敬括は果州刺史として出向した。給事中・兵部侍郎・大理寺卿を歴任した。性格は情に厚く、志は素朴でさっぱりしており、職にあっては名利を求めず、古い習慣に従うだけであった。大暦2年(767年)、周智光が反乱を起こして処断されると、代宗は遵法良質な官吏を近畿の刺史に選抜することとした[2]。敬括は同州刺史となり、御史大夫を兼ね、長春宮等使をつとめた[3]。1年あまりして、入朝して御史大夫となった。下に対しては鈍重で誠心を推し、私事で公を害することがなかったことから、当時の士人に称賛された。大暦6年(771年)3月、死去した[4]。諡は献といった[1]。