斎藤信夫
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1911年3月3日、千葉県山武郡南郷村(現:山武市五木田)に生まれる。南郷尋常小学校(現:山武市立南郷小学校)卒業。1930年、千葉師範学校(現:千葉大学教育学部)第二部に入学し、1931年に卒業し小学校[注釈 1]に奉職する。1936年、25歳の時に1年間休職し千葉師範学校の専攻科へ進んだ[1]。
1940年3月から1945年まで、葛飾町立葛飾尋常小学校(現:船橋市立葛飾小学校)で訓導を務める[2]。教職のかたわら独学で詩作に取り組みながら教材雑誌に投稿を続けるうち、雑誌で作曲家である海沼實の存在を知り、海沼とは面談をしたのちに手紙を交わすようになった。1941年12月の日米開戦で愛国心が高揚すると、一気に書き上げた詩の数編より『星月夜』を海沼ほかに郵送したものの、返事はなかった。
1945年の12月、海沼實に依頼されて改作した『星月夜』は『里の秋』と改題し、ラジオ番組『外地引揚同胞激励の午后〈ごご〉』[2]で全国放送。翌年3月に教職を離れた。
1947年からは中学校の教壇に復する。再び教職に就いた後も作詞と詩の研究を続け、童謡の研究会を主宰し1954年には月刊同人誌「花馬車」、翌1955年には幼児童謡研究誌「三輪車」を創刊する[3]。「三輪車」は55歳で定年退職した後の1967年に、また「花馬車」は1986年に終刊した。
「里の秋」の作詞
1945年12月中旬、突然作曲家の海沼實から『スグオイデコフ カイヌマ』(すぐ来て下さい 海沼)という電報が届いた。何の用事か見当も付かず、海沼にも戦意高揚の童謡を送り付けていた事も忘れている。『星月夜』を示して海沼は、1番、2番はこれでいいが3番、4番を作り直してもらいたいと告げた。『星月夜』の3番は戦地の父を励まし、4番は自分も大きくなったら立派な兵隊になるという、まさに少国民向けの詞であったのだ。海沼は、改作した歌を12月24日のNHKのラジオ番組『外地引揚同胞激励の午后〈ごご〉』で放送し復員兵に歓迎と慰労の意を伝えるため、期日までに3番と4番をまとめて新しい3番を作ってほしいと説明した。
『星月夜』は戦意向上の勢いにまかせて作った詩である。1、2番の歌詞はそのまま変えず新3番を書くとは、作詩当初と内容が全く正反対の詩にしろ、というに等しい。詩人にとって厳しい要求であり詩作は難航した。苦吟すること1週間ほど、放送前夜にやっと完成。斎藤は後になって、3番は無くてもよいという意味のことを言っているが、研究者の間では新3番の舞台として戦地を象徴する『椰子の島』 (『星月夜』の3番の歌詞) を残し、“ご無事を祈ります”という詩の流れを導いて歌詞を結んだと評価している。また1番の冒頭“しずかなしずかな”、2番の“あかるいあかるい”に呼応して新3番に“さよならさよなら”を採用、戦争を含むこの時代の負の部分との訣別の表現として詩全体を支配させた点を秀逸とする見解も多い。
斎藤は放送当日、新『星月夜』を持参し、放送局[4]に駆け付ける。海沼の案で曲名を『星月夜』から『里の秋』と改め、歌詞の2番にある“星の夜”を“星の空”と変更する。そして1945年12月24日午後1時45分、『里の秋』は当時小学5年生の川田正子[5]の声に乗って全国に流された。番組終了後の反響は大きく、川田は翌日再びこの歌をマイクの前で歌っている。
『里の秋』は初めての放送の後、「復員だより」という番組のテーマソングに採用されたことをきっかけに、長く親しまれ愛される大ヒット曲に育った。斎藤は1963年、主宰する同人誌「三輪車」で前年の暮れまでに放送回数が1万回を突破したと報告したのである。
主な作品
歌碑・記念碑
「里の秋」の歌碑
- 作曲家の海沼實の故郷・松代町のつつみ公園 歌詞全文・楽譜、栗の葉と実の形をしている[9]
「蛙の笛」の歌碑
その他の碑
- 海沼美智子[14]の寄稿碑 (いすみ市「童謡の里」)
- 真田公園 童謡の森建設事業 (解説)“童謡の森建設事業 (解説)”. 2015年10月28日閲覧。 (長野市松代町)[12]