斎藤義典
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館林市立第四中学校を経て前橋工業高校に進学[1][3]。前橋工業高校では1年生の秋からエースになり、2年生だった1995年にはセンバツでベスト8に進出した。3年生だった1996年の夏の甲子園ではベスト4に進出[2]。同大会は左投手に好投手が多かったが、斎藤は甲子園大会のベストナインを『スポーツニッポン』の記者が選ぶ「スポニチベストナイン」で同大会の投手部門第1位に選出された。全日本高校野球選抜にも選出され、ロサンゼルスで開催された4か国親善大会に日本代表のエースとして出場し、最高球速147 km/hを記録するなどして活躍。世界大会でも優勝を果たす。
1996年11月21日に開催されたNPBドラフト会議で近鉄バファローズから5位指名を受け、プロ入りへの抱負を語っていた[4]。しかし同じ高校生の前川克彦や中濱裕之がそれぞれ1位や4位で近鉄から指名された一方[2]、斉藤は下位指名だったことから[5]、同年12月10日の3回目の入団交渉の際に「プロでやっていく自信がない」と話し[6]、また近鉄が前橋から遠い在阪球団であることもあって入団に難色を示すようになる[5]。やむを得ず近鉄は斎藤抜きで新入団選手の発表を行い、交渉を継続したが[7]、同年12月27日には同校野球部顧問を通じて正式に入団拒否の意向を表明、既に入社が内定していた社会人野球の本田技研で野球を続けることとなった[5]。同年のドラフト指名選手72人のうち、斎藤を除く71人はいずれもプロ入りしており[8]、斎藤は唯一の入団拒否者となった[9]。
1997年2月には本田技研の串間キャンプに参加したが[10]、1996年10月の国体で痛めた左肘への不安から[11]、後に入社辞退を決断した[10]。本人は国体で肘を痛めたことをきっかけに高校で野球をやめるつもりだったところ、後援会やOBなど周囲の者たちから押されて社会人野球入りを決断していたとも報じられている[10]。同社監督の柳川明弘は同月12日に斎藤の実家を訪れて説得したが、本人は翻意せず、同月14日には柳川が日本野球連盟に正式に報告、斉藤の選手登録は取り消された[11]。同年夏には館林市内の会社で営業職に就いていたが[12]、このころから野球の練習を再開して復帰を目指し、後に富士重工業が斉藤の入団を本田技研に打診したところ、本田技研側も了承したため、1998年から富士重工業でプレーすることになった[1]。1年目から補強選手に選ばれるなど非凡な才能を見せる。都市対抗野球大会などでも活躍を見せ、2002年まで投手陣の主軸として約5年間プレーした。1999年のNPBドラフト会議では再び指名候補に挙がったが[13]、実際に指名されることはなかった。