斎藤雅雄
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2年越しの「郵便将棋」
土佐藩士で家老、のちに参議、元老院議官を歴任した斎藤利行(旧名:渡辺弥久馬)を父に持つ[1][3]。漢学者でもあった父・利行には将棋は余技であったが、小野五平十二世名人に師事し「藤梅園」と号して四段を許される実力者であったことから、子の雅雄も棋才に恵まれ、雅雄が25歳の頃には父と同等の棋力を有した[3]。
しかし、父・利行より「男子四十歳に至るまでは断じて将棋のごとき余技を手にすることはならぬ」と固く戒められた[1][3]。雅雄は将棋を本職とはしないものの、別名の「藤蔭」として当時の高段者と対局経験を積み、小野名人との香落戦で勝利を挙げたことが当時の文献に残っている[1][3][4]。
父・利行の仕事の関係で東京に居住していた雅雄であったが、1881年(明治14年)に利行が死去し、これを機に土佐に帰郷した[1][3]。
郷里の土佐で事業に臨むも、「武士の商法」で失敗し、私財を整理することになった。こののちの1912年ごろ、62歳の老齢ながら将棋の専門家となる決意に至った[3]。50歳のときに六段という初の段位を得たのち、66歳で八段を許された[1][3]。
その後、中風と思しき病に侵された雅雄は、専門棋士として僅か数年の活躍にして70歳で死去[1][3]。
決着までに2年以上を費やした、矢島慎太郎との「郵便将棋」で知られる[1][3]。
1900年(明治33年)6月、小野名人の就位披露会に際し、お好み対局として行われた斎藤七段(当時)と矢島五段(当時)は、まず斎藤七段の先勝となり、2局目を指したが時間切迫のため「指し掛け」となった。斎藤七段は土佐、矢島五段は横浜へとそれぞれ居住地に帰ったが、その後の両者の合意により「指し掛け」を「郵便将棋」として指し継いだ。この一局が決着したのは2年後のことで、矢島五段が勝って3年越しの2局で1勝1敗の指し分けであった[1][3]。