新井耕吉郎
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1921年、旧制沼田中学校(現在の群馬県立沼田高等学校)を卒業後、1925年、北海道帝国大学農学部農学実科を卒業。一年志願兵(幹部候補生)として歩兵第59連隊(宇都宮)で軍隊生活を送る。満期除隊後の1926年に台湾に渡り台湾総督府中央研究所平鎮茶業試験支所に助手として赴任。各地の茶畑の土壌や気候の調査などに参画する中で中部南投県にある日月潭湖畔の水社村貓囒山の中腹・海抜800m付近一帯が紅茶の一大産地になることを確信し、1936年、ここに魚池紅茶試験支所(現在の茶業改良場魚池分場)を開設して、紅茶の栽培を開始する。1941年には技師兼日本人最後の支所長になる。時まさに太平洋戦争下の過酷な条件の中ではあったが、中央研究所で培った実績と経験を生かして独自の「台湾紅茶」を作り上げるべく研究を進めた。1945年、終戦により台湾が国民政府に接収されると、新井も支所長職を陳為禎に譲るも、台湾への熱い思いゆえに妻と娘を日本に帰し、自らは技師としてそのまま留まることを選んだ。しかし、時を置かずして翌年マラリアにより死去。42歳没。
1949年、後を継いだ陳は新井の功績を偲び、茶園に記念碑を建立、従業員たちは台湾紅茶の開祖および貓囒山の守護神としてこれを尊び定期的に参拝するようになる。
台湾紅茶は「渋みを抑えたまろやかな味」で1960年代まで隆盛を極めたが、70年代に粗悪品が出回り始め、80年代には市場から姿を消した。ところが1999年に台湾大地震が発生、震災の復興策として紅茶の生産がとらえられる中で、長年知る人ぞ知る存在であった新井の存在が脚光を浴びるようになってきた[1]。
