新居守村
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文化5年(1808年)、上野国甘楽郡高瀬村(現・群馬県富岡市)に生まれる[7][2][5][8][6]。新居家は小幡信真の感状を伝える旧家で[9]、小幡藩御用達を勤める家柄だった[2][5][8]。父は休兵衛秋住[10]。
父の影響もあり文政5年(1822年)15歳の時に狂歌の社中に入った[11][2][8]。浅草庵の黒川春村に教えを受ける[11][8]。春村死後はその養子・真頼が上野国桐生出身だったこともあり彼と親しく交流した[12][8]。
国学に志し賀茂真淵・本居宣長の著作を精読する[13][2][8]。文政12年(1829年)に大和へ旅行した際、本居春庭(宣長の子)に教えを受けるため伊勢松阪を訪れるが、春庭は前年に死去しており果たせなかった[13][2][8]。若狭国の僧・東条義門の著書を読んでその弟子となることを願い、天保10年(1839年)から義門が死去する同14年(1843年)まで和歌や活語について手紙による指導を受けた[14][2][8]。さらに義門の著書『活語指南』の出版も手がけている[14][2][8]。また平田篤胤の著書を残らず読破し、出版されていないものは平田家に請いて筆写したという[15][2][8][6]。
尊王思想の持ち主であり、元治元年(1864年)に下仁田戦争が勃発した際は高崎藩兵の敗走を喜んだという[16][2][8]。慶応3年(1867年)、神祇伯・白川家より学士職を授与される[17][2][5][8]。
明治元年(1868年)、岩鼻県知県事・大音龍太郎の求めにより『森木芽』を著すと、11月に社寺掛として抜擢、さらに翌年権少属に任じられる[18][2]。明治2年(1869年)11月、大学中助教となるが、20日で辞職した[19]。
岩鼻県の役人に復帰した守村は、神仏分離行政に従事することとなる[20][2]。明治3年(1870年)5月、岩鼻県から榛名山取締に任命されて榛名神社へ赴任し、半月の間に仏像や鐘を鋳つぶすなど廃仏毀釈を実行[20]。祭神も「火産霊神・埴山姫神」から自身の学説にもとづき「速須佐之男命・奇稲田比売命」に改めたが、祭神については数年の後には元に戻されている[20]。同年8月には甘楽郡一宮取締に任じられ、一之宮貫前神社の神仏分離にも関与[21]。10月には岩鼻県下の武蔵国中奈良村・西別府村・下奈良村・妻沼村(現・熊谷市)を巡回し、神社の中の仏像の取出しなど神仏分離の実行を行わせている[22]。
明治5年(1872年)2月、県を辞職[23][2]。11月に神明神社(藤岡市中栗須)祠官となった[23][2]。同年教部省が置かれると教導職を兼務し、1884年(明治17年)に制度が廃止された後も神道事務局のもとで翌々年権中教正に任命されている[24]。1874年(明治7年)6月には一之宮貫前神社権禰宜に就任し、1878年(明治11年)1月に主典に任命された[23][2]。
1881年(明治14年)貫前神社を退任し笹森稲荷神社の祠掌となり、死去まで勤めた[25]。1882年(明治15年)に皇典講究所が創立されると翌年委員補となり、1884年(明治17年)に群馬県皇典講究分所教授に任命され、県下祠掌の指導にあたった[26][2]。
晩年には自宅に近い富岡製糸場の操業開始により近隣農家による繭の生産が盛んとなったことで、守村も頻繁に養蚕祈祷の依頼を受けることで生計を立てていたという[27]。
1893年(明治26年)4月19日、福島町の自宅で死去[3]。86歳[3][5][8]。
著書に『復古八卦方位弁』『易故新』『気象考』『四海祖国考』『復古葬祭事弁』『守村歌集』など[28][5]。曾孫・勇七は高瀬村長を勤めた[29]。