新屋晃
From Wikipedia, the free encyclopedia
鹿児島県の照国高校(現在の鹿児島城西高校)では、1972年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、鹿児島商工に敗退。同年のドラフト会議で日拓ホームフライヤーズに6位指名され入団[1]。1977年には一軍に定着し、二塁手として12試合に先発出場。7月には一番打者としても起用される。しかし1978年には出場機会が減少し、同年限りで引退[1]。
1979年にパシフィック・リーグ審判部に入局した[1]。審判員同期に、セントラル・リーグ元審判員の鷲谷亘がいる。審判員袖番号は29(1979年採用~2004年退職まで。※29は1977年初採用から1978年引退まで吉田正男がつけていた番号だったが現在は空番。)。小柄ながら長く中堅審判員として活躍していたが、後年は一軍試合出場が減り、最後の年は球審をすることはなかった。通算1703試合に出場し、オールスターゲーム2回(1987年、1994年)出場、日本シリーズの出場はない。10.19第2試合で二塁塁審、1987年5月23日に新潟県柏崎市佐藤池野球場で行われた南海 - ロッテ・オリオンズ戦(最後のサスペンデッドゲーム)で球審を務めていた。
引退後は、埼玉県上尾市で硬式ボールなどを扱う事業を行っている傍ら、エバーグリーンアンパイヤクラブに所属し技術指導を行なっている。
2006年には、日本学生野球協会の特別審査で承認を得て、関甲新学生リーグの審判員になることが認められた。審判技術指導を行う元プロ野球審判員は多いが、大学野球で現役審判を務めるのは彼が第一号となる。